入試問題から

 ・問題の本質に係わりない箇所は、書き換えたところがあります。
   例 最も適当な語句を下記の語群から選び、その番号を解答用紙Aの解答欄にマークしなさい。
      ⇒ 最も適当な語句を下記の語群から選びなさい。
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●早稲田大学 文化構想学部 日本史 2013年度

[V] 貿易と貨幣に関する歴史を述べた次の文章を読んで、問に答えなさい。
  10世紀末ころ、日本では銅銭の流通が衰退した。 保元の乱・平治の乱を経て成立した(a)平氏政権は、日宋貿易を推進した。 その結果、宋銭が大量に流入し、「近日、天下の上下、病悩す。これを銭の病と号す。」といわれる現象が起こった。 このことを伝えたのは、鎌倉後期に成立した『百錬抄』の1179年6月条の記事である。 鎌倉末から室町初期にかけて、[ A ]と呼ばれる金融業者が活動した。 御家人たちが所領の売却・入質などにより窮乏に陥っていたことは、鎌倉幕府が1297年に[ B ]を出し、御家人の救済に乗り出したことからもうかがえる。
  足利尊氏が政権の所在地を京都に定めたのは、京都が全国的な経済・商業の中心地であり、そこをおさえることが全国支配のうえから重要と考えたためである。 孫の義満が明に入貢し日明貿易を求めたのは、室町幕府が自ら貨幣を鋳造しなかったので、かわりに(b)明銭を輸入し、国内で流通させるためだった。 日明貿易は1547年の遣明船を最後に断絶した。 16世紀に銀山の開発が進み、日本は世界的な銀産出国となった。 東アジアの貿易は中国の生糸を日本の銀を基軸に展開していった。 倭寇がさかんに活動し、南蛮船が日本に来航した。
  近世日本は日明貿易の再開を追及した。 徳川幕府は、豊臣秀吉の唐入り(朝鮮侵略)後、日明講和を交渉した。 それと並行して(c)朱印船を東南アジア各地に渡航させるとともにポルトガル船に糸割符制度を実施し、生糸の一括購入を行った。 また、マニラのスペイン人と交渉し、三浦半島の[ C ]を開港し、メキシコとの貿易を企図した。 しかし日明講和は不調におわり、メキシコ貿易も挫折した。 幕府はヨーロッパ船との貿易を長崎・平戸両港に制限し、島原の乱後、長崎を中国・オランダ船の唯一の貿易港とした。 このほか(d)中国とは朝鮮・琉球を介して日本の銀と中国の生糸が流通した。 17世紀半ば明から清へ王朝が交代したが、日中国交は実現しなかった。
  江戸幕府は全国的な統一貨幣として慶長金銀を発行し、続いて[ D ]を鋳造した。 [ D ]は明銭にかわって全国的に流通した。 いわゆる鎖国後も長崎貿易はさかんに行われ、金銀の海外流出が問題になっていった。 新井白石の『折りたく柴の記』によると、金貨の4分の1、銀貨の4分の3が流出したといわれる。 幕府は1685年に中国・オランダ船の貿易高を、それぞれ銀6000貫目、金5万両(銀3000貫目)に制限した。 その後、[ E ]による一定額の貿易を認めた。 1715年に中国船銀6000貫目・オランダ船銀3000貫目の定高は据え置き、そのうちの一定額を[ E ]で支払わせた。 貿易高を制限する一方で、朝鮮人参や生糸の国産化を進め、金銀の流出を抑制した。 (e)白糸の輸入制限を契機に、国内の養蚕業が発展した
  1854年、幕府は日米和親条約を結んで開国し、1858年日米修好通商条約を締結した。 翌年貿易が始まると、金貨が大量に国外に流出したため、幕府は(f)1860年貨幣改鋳を行い対処したが、効果がなかった。 貿易の影響は国内産業におよび、綿糸の輸入増大により綿織物業が、生糸の輸出増大により絹織物業が打撃を受けた。

[問]
1 下線(a)に関連する説明として正しいものはどれか。1つ選びなさい。
   ア 平清盛は室津を修築した。
   イ 平清盛は保元の乱で崇徳上皇方についた。
   ウ 平氏政権は荘園・知行国を経済基盤とした。
   エ 平忠盛は日本海の海賊を討ち、平氏台頭の礎を築いた。
   オ 平清盛は長崎で宋人を引見した。
2 空欄[ A ]に該当する語句を漢字2字で記入しなさい。
3 空欄[ B ]に該当する語句を漢字5字で記入しなさい。
4 下線(b)に関連する説明として正しいものはどれか。1つ選びなさい。
   ア 建長寺船・天龍寺船などによってもたらされた。
   イ  洪武通宝・ 永楽通宝・ 天保通宝が全国的に流通した。
   ウ 幕府は楽市・楽座令を出し、取引の円滑を図った。
   エ 幕府は八幡船の請負商人から抽分銭を取った。
   オ 遠隔地間の取引に割符が用いられた。
5 下線(c)に関連する説明として誤っているものはどれか。1つ選びなさい。
   ア 1633年に奉書船以外の海外渡航を禁止した。
   イ 1631年に奉書船制度に改めた。
   ウ 1616年に朱印船の渡航地を拡大した。
   エ 1635年に朱印船の海外渡航を禁止した。
   オ 1639年に南蛮船の長崎来航を禁止した。
6 空欄[ C ]には幕末外交でも知られた地名が入る。それを漢字2字で記入しなさい。
7 下線(d)に関する説明として誤っているものはどれか。2つ選びなさい。
   ア 対馬藩は倭館で朝鮮と貿易を行った。
   イ 琉球は中国に朝貢使節を派遣した。
   ウ 朝鮮は中国に通信使を派遣した。
   エ 琉球は貿易の銀を東南アジアで調達した。
   オ 対馬藩は朝鮮人参を日本にもたらした。
8 空欄[ D ]に該当する語句を漢字4字で記入しなさい。
9 空欄[ E ]に該当する語句を記入しなさい。
10 下線(e)に関する説明として正しいものはどれか。1つ選びなさい。
   ア 京都の西陣織が消滅した。
   イ 足利・桐生で絹織物業がさかえた。
   ウ 久留米絣・琉球絣が織られた。
   エ 越後縮・薩摩上布が織られた。
   オ 尾張・三河で絹織物業がさかえた。
11 下線部(f)のとき鋳造された貨幣として正しいものはどれか。1つ選びなさい。
   ア 元文小判  イ 安政小判  ウ 天保小判  エ 文政小判  オ 万延小判


●慶応義塾大学 経済学部 日本史 2013年度

T コ川幕府の国内支配体制に整備について述べた次の文章を読んで、以下の問1〜問5に答えなさい。
コ川幕府は、・・・経済に関しては、慶長金銀を鋳造させ、(c)全国通貨の発行権を掌握した。・・・

問4 下線部Cに関連して、全国通貨制度の変遷に関する以下の(1)〜(4)に答えなさい。
(1)次の図は、江戸時代に鋳造されたいくつかの金貨の成分構造を時代順に示したものである。 図中のa、bの改鋳を主導した幕臣の氏名を、それぞれ記述しなさい。
(2)上の図中のcとdの改鋳の間の時期に、幕府は金を中心とした貨幣制度への一本化につながる新たな通貨を発行した。その通貨の名称を記述しなさい。
(3)上の図中のdの改鋳が行われた時期の幕府の貨幣政策は経済にどのような影響を与えたか、幕府財政への影響も含めて[解答欄B]所定の欄の範囲内で説明しなさい。
(4)江戸時代の通貨制度から国際的にな本位貨幣制度の確立に至る経過に関して、次のa〜dの事項は、下の年表のどこに入れるのが適切か、年表中の空欄1〜6からそれぞれ選びなさい。(重複使用不可)

  a 貨幣法の制定       b 銀兌換中央銀行券の発行開始
  c 国立銀行の正貨兌換義務の廃止    d 太政官札の発行開始

  <  1  >
  新貨条例制定
  <  2  >
  第一国立銀行の設立
  <  3  >
  秩禄奉還の布告
  <  4  >
  工場払下げ概則公布
  <  5  >
  下関条約調印
  <  6  >


●慶応義塾大学 文学部 日本史 2013年度

T 次の文章(イ〜ニ)を読んで、文中の空欄(A〜T)に該当する適当な語句をそれぞれ語群の中から選び、1〜9の数字を、また語群の中に適当な語句がない場合は0を、解答欄に記入しなさい。
(イ) 日本最古の貨幣は、長らく708年に発行された( A )とされていたが、それとは別に( B )という古い貨幣が存在したことが、江戸時代の文献に記されていた。 1990年代に鋳造工房が発見され、『( C )』の記述と相まって、それが( A )よりも古い貨幣である可能性が高まった。 しかし、( B )が実際に流通していたか否かについては意見が分かれており、( A )も流通貨幣ではあったが、通用範囲は都周辺など限定的であった。  ( A )に始まる皇朝十二銭の最後が10世紀半ばの( D )で、これをもって朝廷による貨幣発行は途絶えてしまう。 そして、12世紀以降、大陸から輸入された( E )銭によって、初めて全国的な貨幣流通が確立することになる。

  1 延喜通宝   2 乾元大宝   3 続日本紀  4 清   5 宋
  6 和同開珎  7 日本書紀   8 富本銭   9 明

(ロ)15世紀末から16世紀にかけて、悪銭を嫌い良銭を選好する( F )が広がり、輸入銭の流通は混乱した。 17世紀に入ると、江戸幕府の下で日本独自の貨幣が発行され、いわゆる三貨制度が整えられた。 これは、秤量貨幣の( G )と計数貨幣の( H )ならびに銭貨という3系列の貨幣を併用する複雑な制度であった。 しかし( I )政権下で、( H )の単位を表記した計数( G )が初めて発行されると、その後急速に流通量を増し、幕末までに三貨がほとんどすべて計数貨幣に収斂していった。 なお、紙幣に関しても、地域限定的なものではあるが、( J )や私札などの流通が近世段階で確立している。

  1 井伊直弼  2 金貨    3 銀貨  4 撰銭  5 撰銭令
  6 松平定信  7 水野忠邦  8 藩札  9 割符

(ハ)1871年、明治政府は( K )を制定し、円・銭・厘を単位とする単一の系列の貨幣制度へと移行した。 従来の1両は1円とされ、またそれぞれの単位の関係は( L )銭=1円、10厘=1銭であった。 この頃、財政難から太政官札・民部省札などの( M )紙幣が乱発され、通貨の安定が損なわれていたので、1872年、アメリカの制度にならって( N )を定め、( O )銀行券の発行を促そうとした。 しかし、発券銀行の経営難から1876年に( O )義務を取り除いたため、銀行券が( M )紙幣化し、さらに翌年に起こった西南戦争の戦費調達のため、( M )紙幣が増発されたことから、激しいインフレーションが起きてしまった。

  1 新貨条例  2 貨幣法   3 兌換    4 国立銀行条例  5 不換
  6 日本銀行法 7 両替    8 10    9 100

(ニ)1880年代前半の緊縮財政と紙幣整理を経て、ようやく( P )が確立され、さらに1897年には松方正義( Q )の下で、日清戦争の賠償金を準備金として( R )に移行した。 第一次世界大戦中の1917年に( S )が禁止された後、1930年に至って( R )に復帰したが、その結果として日本は世界恐慌の直撃を被り、深刻な恐慌状態となった。 そこで1931年には再び( S )が禁止され、( R )に代えて( T )が採用されることになった。

  1 総理大臣  2 大蔵大臣  3 管理通貨制度 4 金輸出  5 金本位制
  6 大蔵卿   7 銀本位制  8 金輸入    9 金銀複本位制


●大学入試センター 日本史 2013年度

第3問 B ・・・、老中水野忠成は、(c)貨幣改鋳の差益などによる財政の拡大をはかった。・・・
問4 下線部(c)に関連して、次の表を参考にしながら、江戸時代の小判について述べた文として正しいものを、下の@〜Cのうちから一つ選べ。

    小判の重量と成分比
種類1枚あたりの
重量(匁)(注1)
成分比(注2)
金(%)銀(%)
慶長小判 4.7684.2915.71
元禄小判 4.7657.3742.63
宝永小判 2.5084.2915.71
正徳小判 4.7684.2915.71
享保小判 4.7686.7913.21
元文小判 3.5065.7134.29
文政小判 3.5056.4143.59
天保小判 3.0056.7743.23
安政小判 2.4056.7743.23
万延小判 0.8856.7743.23
(国立歴史民俗博物館編『お金の不思議 貨幣の歴史学』により作成)
(注1) 1匁=3.75グラム
(注2) 成分比は、幕府が公認した品位による。

@江戸時代の小判は、慶長小判の発行以後、改鋳のたびに金の成分比が下がり続けた。
A江戸時代の小判のうち、はじめて銀の成分比が40%を超えたのは、文政小判である。
B新井白石は、小判の重量は変えずに、金の成分比を下げることによって増収をはかろうとした。
C幕府は、小判1枚あたりの金の重量を軽くすることによって、開港後の状況に対応しようとした。


●早稲田大学 文学部 日本史 2012年度

[2] 次の文を読んで、問に答えなさい。
  『続日本紀』によると、【 A 】国秩父郡から、「和銅」が献上されたので、年号を「和銅」と改めたとある。 そして同時に、銭貨鋳造がはじまるが、その銭貨には「【 B 】」の4文字がみえる。 このうち、2文字目の意味や、4文字目の字形などについては、さまざまな意見がある。
  この【 B 】は、通貨として円滑に機能したわけではなかった。 まず、最初に【 C 】銭が発行され、ついで【 D 】銭が発行された。 はじめに【 C 】銭が発行されたのは、これ以前から【 C 】が貨幣価値をもっていたからである。 しかし、律令国家は、【 C 】銭と【 D 】銭の交換比率を明示しながら、【 D 】銭への一本化を誘導することに努めた。
  だが、租・庸・調や労役などを課す実物(人も含む)本位の国家財政体系とその社会は、そもそも、銭貨を用いた流通経済と容易になじむものではなかった。 そこで、これまで貨幣価値を担ってきたa布や稲(または穀)と銭貨との交換比率を明示しながら、銭貨の流通を促さざるを得なかった。 また、b京から諸国に帰る役夫や運脚が銭貨を用いて途次の食糧調達にあたることを推奨した。
  c711年の詔も、その苦心のあらわれであった。 銭貨を用いて交易することを知らない習俗を改めるという理由のもとで、たくわえた銭貨の額に応じて【 E 】をおこなうと宣言し、銭貨の効能を訴えたのである。 ところが、8世紀末以降になると、今度は逆に、銭貨をたくわえることを禁止している。 その理由は、人々の「利」を均等にするために銭貨の流通を促してきたのであるが、今や、銭貨が「利」の不均等を加速しているというのである。
  このように、銭貨をめぐる政策が動揺し、ひいては相反する政策が出されるに至ったのは、現実社会の変化に対応するためであったが、基本的には、律令国家の財政体系と銭貨流通経済とが相いれない性格のものであったことに由来していようか。

  問1 【 A 】にあてはまる国名は何か。漢字2字で記入しなさい。
  問2 【 B 】にあてはまる語句は何か。
  問3 【 B 】よりも先に鋳造された貨幣が、飛鳥池遺跡から大量に発見されている。その貨幣は、銘にもとづいて何と呼ばれているか。漢字3字で記入しなさい。
  問4 【 C 】と【 D 】にあてはまる語句の組み合わせとして正しいものはどれか。1つ選びなさい。
      金−銀 金−銅 銀−金 銀−銅 銅−金 銅−銀
  問5 下線aの説明で誤っているものはどれか。1つ選びなさい。
    ア 布は調としておさめられた。
    イ 布は庸としておさめられた。
    ウ 布は歳役のかわりに用いられた。
    エ 稲は公出挙に用いられた。
    オ 穀は租として京へ貢進された。
  問6 下線bの説明で正しいものはどれか。1つ選びなさい。
    ア 運脚は租・庸・調をまとめて京へ運んだ。
    イ 役夫と運脚は賤民の労役であった。
    ウ 運脚は駅戸から採用されるきまりであった。
    エ 役夫のなかには雇役の民がいた。
    オ 役夫とは防人のことである。
  問7 下線cに関する説明で誤っているものはどれか。1つ選びなさい。
    ア この詔は「風土記」の編纂開始後に出された。
    イ この詔は藤原不比等の生存中に出された。
    ウ この詔は元明天皇の時代に出された。
    エ この詔は養老律令の施行以前に出された。
    オ この詔は『続日本紀』に載せられている。
  問8 【 E 】にあてはまる語句は何か。1つ選びなさい。
     墾田支給  任官  宅地支給  叙位  租庸免除


●同志社大学 日本史 2012年度

[U]次の(1)〜(5)の文章を読み、下記の【設問a】〜【設問n】および【設問ア】〜【設問ケ】に答えよ。
(5)大坂は「天下の台所」といわれ、西日本や全国の物資の集散地としてさかえた大商業都市である。 諸藩は蔵屋敷を大坂において、領内の年貢米や特産物である蔵物を蔵元・掛屋とよばれる商人を通じて販売し、貨幣の獲得につとめた。 また、(l)全国の商人が大坂などにおくる商品も活発に取引された。
  全国的に通用する同じ規格の金・銀の貨幣は、徳川家康が慶長5年(1600)頃から金座・銀座で大量につくらせた金銀貨幣がはじめとされる。 このうち金座は後藤庄三郎のもとで小判・一分金などの( m )を鋳造し、銀座は丁銀や( n )などの秤量貨幣を鋳造した。 銭貨は近世当初、中国銭である永楽銭がまだ大量に流通しており、永楽銭1貫文=金1両の交換比率を定めて混乱を防ぐにとどまった。 しかし寛永期に(ケ)銭座をつくり寛永通宝を大量に鋳造し、銭貨を広く普及させた。 そして17世紀中ごろまでに金・銀・銭の三貨が全国に普及し、商品流通の飛躍的な発展を支えた。

【設問l】 下線部(l)のような商品を蔵物に対して何んとよんだか。漢字で記せ。
【設問m】 空欄( m )には、一定の純度と分量と形状を持ち、一定の価格が表示され、目方でなく個数や額面で通用する貨幣の名称が入る。その名称を漢字で記せ。
【設問n】 空欄( n )には、丁銀の補助となる銀貨で、小粒・小玉銀ともいう貨幣の名前が入る。その名称を漢字で記せ。
【設問ケ】 寛永13年(1636)に江戸の芝とともに銭座がつくられた場所を次のうちから1つ選べ。
    大坂  近江坂本  伏見  駿府


●早稲田大学 教育学部 世界史 2011年度

[3] 次の文章1,2を読み、以下の設問A,B,Cに答えなさい。
1  表意文字である漢字は、    ・・・略・・・
2  人間の生活において交換という行為は不可欠であり、貨幣はそのなかだちとして案出されたもので、支払いの手段や価格の基準として機能してきた。 中国では殷の時代に子安貝が物品貨幣として用いられたとされるが、これには装身具や呪術的意味が強かったとする解釈もある。 鋳造貨幣は春秋・戦国時代に現れ、戦国七雄の諸国ではそれぞれの形態の青銅貨幣が使用されたA。 秦の始皇帝は統一貨幣として[ ロ ]を発行したが、漢代には重量と銭文が名実不一致となり、前漢の武帝Bはかわって五銖銭を鋳造した。 五銖銭は隋代に至るまでの約700年の間、基準貨幣としての意味を持続した。 しかし、南北朝期には粗悪な貨幣も出回ったので、唐の高祖は新たに( 5 )銭を鋳造し、これが日本その他の周辺諸国の鋳造銭の模範とされた。 ただし、この鋳造貨幣はいわば小銭にあたり、唐代では高額の取引には布帛が用いられ、税制の調や庸も布帛で納入されたC。 また、唐代では遠隔地用の取引のために( 6 )と呼ばれる一種の手形も用いられた。

設問A 空欄(1)〜(6)に入れるのに適切な語をa〜dの中から選びなさい。
  (5) a 洪武通宝  b 開元通宝  c 乾元重宝  d 唐国通宝
  (6) a 飛銭  b 交子  c 会子  d 過所

設問B 下線部@〜Cに関する設問について、適切な解答をa〜dの中から選びなさい。
  A 戦国諸国とその国で主に鋳造された貨幣の組み合わせとして妥当なものはどれか。
     a 趙−泉貨  b 楚−蟻鼻銭  c 秦−刀銭  d 燕−布銭
  B 前漢・武帝の政策として誤りを含むものはどれか。
     a 班超を大苑に派遣して汗血馬を輸入し、それによって対匈奴戦を有利に転換させた。
     b 薫仲舒の献策を採用して儒教を官学化し、礼と徳による社会秩序の安定をめざした。
     c 専売制や物価調整法を採用し、それによって財政の立て直しをはかった。
  C 唐の租庸調制に関する説明として誤りを含むものはどれか。
     a 調は、毎年丁男一人につき、絹類2丈と真綿3両、または麻布2丈5尺と麻3斤を課した。
     b 丁男の労役は年20日であり、閏年は22日とされ、労役しない者は庸として布帛を納めた。
     c 唐の租庸調の税額は律の中に規定され、違反者に対する刑罰は令の中に規定された。
     d 日本は唐の律令を模倣して大宝・養老律令を制定したが、税額体系は異なっていた。

設問C 空欄[ イ ]・[ ロ ]に入る語を所定欄に全て漢字で記入しなさい。


●慶応義塾大学 文学部 日本史 2011年度

W 次の史料(イ・ロ)は、江戸幕府が発布した御触書である。これらを読んで、設問に答えなさい。
(イ) (a)文字銀同位を以て、掛目五匁ニ定り候銀吹立仰せ付られ候間、有り来りの(b)丁銀・小玉銀ニ取り交ぜ、通用致すべき旨、去々酉年相触れ候得共、以来右五匁銀の儀は銀相場ニ拘らず、金壱両に六拾目替の積りを以て、金壱分ニ銀三枚、金壱両ニ銀壱弐枚の積り、渡方・請取方滞りなく通用致すべく候。
(ロ) 此度、運用のため吹抜候上銀、( A )と唱へ候銀を以て、弐朱の歩判仰せ付られ候間、右歩判八を以て金壱両の積り、(c)文銀ならびに銭共、時の相場の通滞りなく両替致すべき事。
  一、右弐朱銀両替ニ付、切賃の儀是れ又金と同様相心得、取造り致すべき事。
  一、弐朱銀包みの儀は、文字銀と違ひ、銀座に於て包み致し候間、其の通り相心得申すべく事。
                                     (原文を一部修正)
      去々酉年:明和2(1765)年。  切賃:両替の手数料。

問1 史料(イ・ロ)が発布された時の将軍は誰か、氏名を記しなさい。
問2 下線(a)「文字銀」および下線(c)「文銀」とは、元文元(1736)年に改鋳された銀貨のことである。この改鋳を主導した江戸町奉行は誰か、氏名を記しなさい。
問3 当時の金貨は計数貨幣であったが、これに対して下線(b)「丁銀・小玉銀」などの銀貨は何と呼ばれるか。
問4 空欄( A )にふさわしい語を、漢字2文字で記しなさい。
問5 史料(ロ)の貨幣は、ある人物が将軍補佐に就任すると、それまで通用していたものの使用が認められたが、その鋳造は中止された。その人物とは誰か、氏名を記しなさい。
問6 史料(イ・ロ)の政策によって、幕府が目指したところを、以下の3つの語を用いて、140字以内でまとめなさい。
      金遣い   銀遣い   長崎貿易


●慶応義塾大学 経済学部 日本史 2011年度

問3 江戸時代の貨幣制度とその改革について述べた次の文章に関する以下の(1)〜(3)に答えなさい。
  江戸時代初期の貨幣制度の基準となったのは、金座・銀座で鋳造された( a )金銀と呼ばれる貨幣である。 銭貨では、江戸初期までは( b )通宝が大量に流通していたが、徳川家光の時代に( c )通宝が鋳造され、銭貨の統一が進められた。
  17世紀末になると、財政の悪化に苦しんだ幕府は勘定吟味役の( A )の意見を取り入れて、それまでの小判と比べて金含有量を( ア )( d )小判を鋳造した。 その結果、物価が( イ )ために、幕府は朱子学者の( B )の考えに従い、( a )小判とほぼ同じ程度になるまで金含有量を( ウ )( c )小判を鋳造した。
  その後、10代将軍家治の時代に老中となった( C )が幕府の実権を握ると、金中心の貨幣制度への統一をめざして( あ )を鋳造し、貨幣流通の円滑化や商品流通の拡大を図った。
  (1)上の文章中の(a)〜(e)、(A)〜(C)に入れるのにもっとも適切な語を、以下のそれぞれの語群から選びなさい。
[(a)〜(e)の語群]
   永楽  寛永  慶長  元禄  正徳  天保  文政  宝暦
[(A)〜(C)の語群]
   新井白石  荻生徂徠  荻原重秀  田沼意次  松平定信  柳沢吉保
  (2)上の文章中の(ア)〜(ウ)に入る語句の組み合わせとしてもっとも適切なものを次の1〜8から選びなさい。
 1 2 3 4 5 6 7 8
   (ア)増やした増やした増やした増やした減らした減らした減らした減らした
   (イ)上昇した上昇した下落した下落した上昇した上昇した下落した下落した
   (ウ)増やした減らした増やした減らした増やした減らした増やした減らした

  (3)上の文章中の(あ)に入れるのにもっとも適切な語句を所定の欄に記述しなさい。

●慶応義塾大学 商学部 世界史 2011年度

  III. 次の文章を読み、下記の問いに答えなさい。
  ギリシャの財政危機に端を発するユーロ安や、先行き不透明なアメリカ経済を反映するドル安などに見られるように、通貨に対する信頼が揺らいでいる。 その一方、価格が上昇しているのは金である。 ロンドンにおけるドル建ての金価格は2005年に比べて2010年半ばには倍以上に値上がりしている。 現在では主要国の通貨と金は結びつけられていないが、人々は変わらず金に引き寄せられている。 世界史においても、金は歴史を動かす原動力のひとつであった。ここでは人間と金のかかわりを簡単に見てみよう。
  金は世界のさまざまな地域で価値のある金属とみなされていた。 そして、その用途は貨幣のみに限られていたわけではない。 たとえば古代のエジプトにおいて、金は太陽神【  】の肌であると考えられ、太陽神の子とされたファラオの王墓の副葬品には多くの金が使われていた。 つまり、金は宗教的な意味を持っていたわけである。 アメリカ大陸においても、1521年に【  】に破られたアステカ帝国や、1533年に【  】によって滅ぼされたインカ帝国でも金は宗教と結びつけられたり、装飾品として使用されたりしていた。
  世界で最初に貨幣が鋳造されたのは(a)前7世紀で、アナトリア西部に建国され、イオニア地方のギリシャ人諸都市を勢力化に置いた【  】においてだと言われている。 ローマ帝国においては、313年の【  】でキリスト経を公認した【  】帝がソリドゥス金貨を創設して、金貨を基軸通貨とする地中海交易の安定をはかった。 この金貨はビザンツ帝国にも受け継がれた。
  イスラーム世界では、7世紀終わりから8世紀はじめにかけて【  】朝カリフであったアブドゥルマリクによる通貨改革が成功すると、【  】金貨 の流通地域が徐々に広がっていった。 イスラーム世界への金の供給源は複数あり、そのひとつは大量の金が使用されていたファラオの王墓であった。 西アフリカも金の産地として知られており、ガーナ王国とイスラーム世界の間が金とサハラの【  】を交換する交易が盛んであった。 マグリブ地域に【  】人が建てたムラービド朝が11世紀後半にガーナ王国を攻撃し、同王国が衰退すると、西アフリカのイスラーム化が進むとともに、イスラーム世界に金が大量に流入した。 このためムラービト朝首都の【  】をはじめとする多くの都市が繁栄した。 また、西アフリカに建国されたマリ王国最盛期の王である【  】はメッカ巡礼の際に大量の金を消費し、金の価格が暴落したとされる。
  19世紀になると、世界各地で金鉱が発見され、金の生産量が飛躍的に伸びた。そして、金が発見された場所は政治的にも大きな変化を経験した。 1848年にはカリフォルニアで金鉱が発見されると世界中から移民が殺到し、人口が激増した。 このため1850年にカリフォルニアはアメリカ合衆国31番目の州になった。 1850年代にはイギリス植民地の【  】は、1901年に(b)自治領となった。 また(c)南アフリカでは19世紀中頃にブール人が建設した【  】やオレンジ自由国で金や【  】が発見された。このため両国は(d)19世紀末にイギリスによる侵略を受け、最終的にはイギリス領となった。
  19世紀はじめから第一次世界大戦勃発までの一世紀は、金本位制の時代だと言える。 西欧諸国の中で最初に金本位制に移行したのは、(e)世界的な分業体制における事実上の覇権を確立したイギリスで、1816年にソブリン金貨を鋳造し、これを法定通貨とした。 その後、1870年代には他のヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国が相次いで金本位制に移行し、19世紀末には、(f)インドや日本も金本位制に移行した。  しかし、第一次大戦や世界恐慌を経験する中で各国は金本位制を停止したり金本位制に復帰したりいと、金本位制は揺らいだ。 最終的に、イギリスの【  】内閣が1931年に金本位制を停止したほか、1930年代後半までには全ての国が金本位制から離脱した。
  1944年に第二次世界大戦後の国際金融や経済協力の枠組みが話し合われたが、そこでは(g)米ドルを基軸通貨とすることが決められた。 この理由のひとつとして、この体制は、会議が行われた場所にちなんでブレトン=ウッズ体制と呼ばれていたが、1971年の【  】により終わりを迎えた。
  上述の通り、現在では金は主要通貨とむすびつけられてはいない。 しかし、カナダやオーストリアが発行している金貨が資産として国際的に広く取り引きされているなど、金の重要性は失われていない。
  問1 文中の空欄【  】にあてはまる最も適当な語句や数字を下記の語群から選びなさい。
アタナシウスアッバース
アマルナアラブウガリットウマイヤエフェソス公会議
オイル=ショックオーストラリアカサブランカカナダカネム=ボルヌー
カブラル岩塩ケープ植民地
胡椒コルテスコルドバコンスタンティヌス
ダイヤモンドディオクレディアヌスディナールディルハムトランスヴァール共和国
ドル=ショックナタールニケーア公会議ヌビアネヴィル=チェンバレン
バイバルスバルボアピサロヒッタイトファーティマ
ファルスプラザ合意ベルベルホルドマガリャンイス
マクドナルド挙国一致マラケシュマラヤマンサ=ムーサミラノ勅令
ラーラス=カサスリディアロイド=ジョージ挙国一致

  問2 下線部(a)〜(g)について、以下の設問(1)〜(7)に答えなさい。
(1) 下線部(a)について、前7世紀のオリエント世界は四つの王国が分立していたが、その前後の時代は世界帝国によって統一されていた。その二つの世界帝国の名前を、古いものから順に解答欄に記入しなさい。
(2) 下線部(b)について、イギリスは植民地によって直接支配を行ったり、自治領にして間接支配を行ったりしたが、イギリス自治領の地位を定めた1931年に制定された法律を何というか、解答欄に記入しなさい。
(3) 下線部(c)について、1870年以降、南アフリカで金など鉱物資源の採掘権を独占し、ケープ植民地の首相にもなったイギリスの企業家の名前を解答欄に記入しなさい。
(4) 下線部(d)について、この戦争の名前を解答欄に記入しなさい。
(5) 下線部(e)について、当時世界の工場と言われたイギリスは、自国の工業製品を輸出するために対外的に自由貿易を推し進めていったが、自由貿易主義を提唱したアダム=スミスやリカードの経済学は何と呼ばれているか、解答欄に記入しなさい。
(6) 下線部(f)について、インドや日本などアジアの国々が金本位制に移行する中で中国だけは銀本位制を維持した。中国が銀本位制を放棄したのは1930年代中頃だが、この時新たに法定通貨となったのは何かを3字以内で解答欄に記入しなさい。
(7) 下線部(g)について、ドル、各国通貨、金の関係はどうなっていたのかを35字以内で解答欄に記入しなさい。


●立命館大学 文系A 日本史 2011年度

I 次の文章[1]〜[3]を読み、(a)から(c)の問いに答えよ。

[1]近年、奈良県飛鳥池遺跡の発掘調査によって、多数の【A】と鋳造にかかわる遺構が発見され、【B】年に発行された和同開珎をさかのぼる鋳造銭の存在が明らかになった。 この銭は@『日本書記』の「今より以後、必ず銅銭を用いよ」という記事に対応すると推定されている。なお、【A】は流通貨幣という説と、まじないに使用した厭勝銭(えんしょうせん)という説があり、決着をみていない。
  銭貨は、その流通をはかるために、宮都造営費用の支払いに利用され、また京・畿内の調を銭貨により貢納させたり、A銭貨を蓄えた者に、その量に応じて位階を授けるという法令も出された。 しかしながら、京・畿内以外の地域では、稲や布などの現物貨幣による交易が広くおこなわれていて、銭貨は十分には流通しなかったと考えられる。
  なお、和同開珎はB唐の長安城跡や渤海の上京竜泉府(東京城)跡でも発見されている。
(a)空欄【A】にあてはまる、もっとも適当な銭貨の名称を答えよ。
(b)空欄【B】にあてはまる、もっとも適当な発行年を西暦で答えよ。
(c)下線部@に関連して、この詔は誰がだしたものか。もっとも適当な人名を下から一つ選びなさい。
     天武天皇  持統天皇  文武天皇  元明天皇
(d)下線部Aに関連して、この法令の名称を漢字5文字で答えよ。
(e)下線部Bに関連して、両都城の場所はどこか。次掲の地図上の地点表示として、もっとも適当が組み合わせを一つ選びなさい。
     A−E   B−D   C−A   C−E
[2]古代の日本における銭貨の鋳造は、律令体制の衰えとともに【C】を最後に鋳造が終わる。 しかし、やがて商品の取引が盛んになり、貨幣の需要が高まり、中世に入ると、C中国からの渡来銭が流入し、本格的な銭貨の流通が始まることになる。 鎌倉時代には貨幣経済が浸透し、都市はもちろんのこと農村にも広がり、一部の荘園では、年貢の銭納もおこなわれた。 遠隔地間の取引では金銭などの輸送を手形で代用する為替が利用され、また、【D】と呼ばれる高利貸業者も多く現れた。
  室町時代には貨幣の需要がより増大し、D宋銭などに加えて明銭が流入し、それにともない国内で粗悪な私鋳銭も作られることになる。 また、長期間の使用により摩滅・破損した貨幣もあり、それらを選別し良質の銭貨を選ぶ【E】が激しくなり、貨幣価値が不安定になった。 そのため、幕府・大名などは、これを制限して貨幣の通用基準を示した【E】令をしばしば発布した。
(f)空欄【C】にあてはまる、もっとも適当な銭貨の名称を答えよ。
(g)下線部Cに関連して、12世紀以降の日宋貿易では大量の宋銭が輸入され、日本の貨幣経済を進展させた。平清盛がこの貿易を推進するために修築した摂津の港の名称を答えよ。
(h)空欄【D】の業者は、『山王霊験記絵巻』にも登場する。空欄【D】にあてはまる、もっとも適当な語句を答えよ。
(i)下線部Dに関連して、次の銭貨のなかから、明銭としてもっとも適当なものを一つ選び、記号で答えよ。なお、写真の銭貨は大きさを統一して表示している。
(あ)
(い)
(う)
(え)
(j)空欄【E】にあてはまる、もっとも適当な語句を答えよ。
[3]徳川幕府の貨幣制度は、金・銀・銭の【F】制度と呼ばれる。 金・銀の貨幣的使用は、戦国期に金・銀山の開発とともに一般化し、徳川家康も関ケ原の戦に勝利すると、金座・銀座で慶長金銀を作らせた。 金貨は大判・小判などの計数貨幣で、交換比率は当初、金1両=銀50匁=銭【G】貫文と定められたが、時期により変動も大きかった。 金貨の単位は両・【H】・朱で、1両=4【H】、1【H】=4朱の4進法で数える。 それに対して、丁銀や豆板銀などは【I】貨幣として、重さを量って価値を決める貨幣である。
  寛永通宝は、文字通り寛永期に、江戸と近江坂本に銭座をつくり、鋳造が開始され、その後も文字はそのままで製作が続けられた。 これによって17世紀中頃までにはE国産の貨幣が揃い、全国に普及することになる
  一方、各藩では、財政難を補うために、藩領内だけで流通が認められた藩札と呼ばれる紙幣を発行した。 現存最古のものは、福井藩で1661年に発行された銀札である。
(k)空欄【F】にあてはまる、もっとも適当な語句を答えよ。
(l)空欄【G】にあてはまる、もっとも適当な数字を下から一つ選びなさい。
     5   4   3   2
(m)空欄【H】にあてはまる、もっとも適当な単位を下から一つ選びなさい。
     分   厘   文   毛
(n)計数貨幣に対して、空欄【I】は何貨幣と呼ばれるか。もっとも適当な語句を答えよ。
(o)下線部Eに関連して、江戸時代には金・銀・銭の交換だけでなく、為替取組、手形決済、商品担保の貸付などをおこなう有力な両替商があらわれる。次の人物のなかから、両替商として適当でない人物を一人選びなさい。
     三井高利   後藤庄三郎   鴻池善右衛門   天王寺屋五郎兵衛


●京都大学 日本史 2010年度

 (U)次の文章(@〜H)の[ ア ]〜[ ト ]に最も適当な語句を記せ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。
B江戸時代の貨幣制度は、金・銀・銭の三貨を並行的に通用させるものであった。幕府はまず金座・銀座を設け金銀貨を発行したあと、それまで通用していた永楽銭など中国銭の流通を停止し、かわって[ オ ]を大量発行した。三貨のうち銀は、取り引きにさいし重さを量って通用する[ カ ]であった。


●大阪大学 日本史 2010年度

 (U) 室町時代には商業や交通がたいへん盛んとなり、それにともなって貨幣の流通がすすんだ。
    貨幣経済の発展と、それに対する幕府の政策について具体的に述べなさい(200字程度)。


●大学入試センター 世界史 2010年度

第2問 世界史上の貨幣について述べた次の文章A〜Cを読み、下の問い(問1〜9)に答えよ。(配点 25)

 A 中国では、長らく銅銭が流通していたが、常に@貨幣の主役であったわけではない。A魏晋南北朝時代には、銅銭の不足や粗悪化が見られ、その役割も低下した。隋唐時代に至って銅銭の地位は回復したが、流通量が経済発展に追い付かなかった。宋代になると、銅銭を補うものとして紙幣や鉄銭が用いられ、B16世紀以降は、外国銭の大量流入によって、銀の流通も拡大した。
問1 下線部@の歴史について述べた次の文章中の空欄[ア]と[イ]に入れる語の組合せとして正しいものを、下の@〜Cのうちから一つ選べ。
 貨幣の鋳造は、アナトリア(小アジア)の[ア]で始まったとされる。図像が描かれたローマなどの貨幣とは異なって、秦の始皇帝の時代に発行された[イ]には文字のみが記され、中央に方形の孔(あな)があけられていた。
@ ア−リディア(リュディア)  イ−半両銭
A ア−リディア(リュディア)  イ−五銖銭
B ア−パルティア  イ−半両銭
C ア−パルティア  イ−五銖銭

問2 下線部Aの時代の文化について述べた文として正しいものを、次の@〜Cのうちから一つ選べ。
@ 韓愈が、古代の復興を唱えた。
A 書の分野では、王羲之が著名である。
B 顧炎武が、「女史箴図」を描いた。
C 梁の昭明太子が、「斉民要術」を編纂した。

問3 下線部Bの時期に起こった出来事について述べた文として誤っているものを、次の@〜Cのうちから一つ選べ。
@ インカ帝国が滅亡した。
A ツォンカパが、チベット仏教の改革を行った。
B ポルトガルが、マカオに居住権を獲得した。
C バーブルが、ムガル帝国を建てた。

 B 13・14世紀のユーラシアでは、諸地域にまたがって銀が決済手段として用いられ、各地域の経済を活性化させた。13世紀以降、中国を征服して元を建てたモンゴル人は、銀とC紙幣を主な通貨とする経済政策を採用し、政府が集めた銀を西方との交易に用いた。一方、14世紀のDフィレンツェで編纂された「商業指南」にも、銀も元手に、元支配下の中国から絹織物を仕入れる方法が記されている。また、この時期、交易を通じてヨーロッパからE南アジア・東南アジアに流出した銀も、さらに元の支配する地域にまで流れていたとされる。
問4 下線部Cについて、元が発行した紙幣の名称として最も適当なものを、次の@〜Cのうちから一つ選べ
@ 布 銭(布貨)
A 会 子
B 交 子
C 交 鈔

問5 下線部Dの都市について、その位置を示す次の地図中のaまたはbと、この都市で勢力を拡大した豪商との組合せとして正しいものを、下の@〜Cのうちから一つ選べ。
@ a−メディチ家
A a−フッガー家
B b−メディチ家
C b−フッガー家

問6 下線部Eに関連して、13・14世紀の南アジアについて述べた文として正しいものを次の@〜Cのうちから一つ選べ。
@ デリーに奴隷王朝が成立した。
A ソンガイ王国が成立した。
B ブワイフ朝が成立した。
C ヴィジャヤナガル王国が滅亡した。

 C Fラテンアメリカは、資源に恵まれた地域である。16世紀半ば、スペイン領でポトシ銀山のような大銀山が次々と発見されると、鉱業が大いに繁栄した。
 Gは植民地から様々な名目でスペイン王室へもたらされたが、戦費や国際的金融業者に対する債務の返済に充てられた。一方、植民地に輸入されたスペイン産の織物や鉄、水銀、フランス産やフランドル産の高級織物、Hアフリカの黒人奴隷などの対価は、銀で支払われた。1570年代、メキシコとフィリピンを結ぶガレオン貿易が始められると、銀はマニラで取り引きされるアジアの商品の決済にも使われた。こうして、ラテンアメリカの銀は、ヨーロッパとアジアに広まった。
問7 下線部Fの地域について述べた文として正しいものを、次の@〜Cのうちから一つ選べ。
@ 19世紀前半、ブラジルはスペインから独立した。
A メキシコは、アメリカ合衆国に敗れて、カリフォルニアを割譲した。
B ペルーのアジェンデ政権は、軍事クーデタで倒された。
C シモン=ボリバルは、キューバを独立させた。

問8 下線部Gに関連して、金や銀にかかわる出来事について述べた文として最も適当なものを、次の@〜Cのうちから一つ選べ。
@ ガーナ王国は、銀と塩(岩塩)を交換する交易を行った。
A アメリカ合衆国の西部で金鉱が発見され、ゴールドラッシュが起こった。
B 金鉱が見つかったトランスヴァール共和国は、フランスに併合された。
C 世界恐慌が起こると、イギリスは金本位制に復帰した。

問9 下線部Hの地域について述べた次の文aとbの正誤の組合せとして正しいものを、下の@〜Cのうちから一つ選べ。
a 三度のポエニ戦争の結果、カルタゴはローマに滅ぼされた。
b リビア(トリポリ・キレナイカ)は、ドイツの植民地となった。
@ a−正  b−正
A a−正  b−誤
B a−誤  b−正
C a−誤  b−誤


●早稲田大学 法学部 日本史 2009年度

I 次の文を読み、後の問に答えなさい。
  958年の( A )を最後に、皇朝十二銭の鋳造が中止されると、近世に至るまで、国家による正規の貨幣鋳造はおこなわれなかった。中世でも銭貨は広く流通していたが、その銭は主として輸入されたものであった。
  894年に遣唐使が廃止された後、アジアの国々との間には正式な国交はなかった。しかし、新羅を滅ぼし936年に朝鮮半島を統一した高麗は、10世紀後半に中国に興った宋の商船などの来航は頻繁となり、( B )を中心とする私的な貿易は続けられた。
  律令国家が作った銅銭の流通は10世紀末頃には衰退し、布や絹、米が通貨のかわりに用いられたが、12世紀中頃から宋銭を主とする中国銭の輸入がはじまった。平清盛は日宋貿易に力を注ぎ、宋船の航行の便をはかるため、安芸国の( C )を開削し、摂津国のa大輪田泊を修復した。朝廷は一時中国銭の通用を禁止したが、13世紀に入ると経済が発達し、流通銭貨が増加したため、禁圧を続けることが出来なくなった。1226年には鎌倉幕府が布の貨幣的使用を禁止し銭の使用を命じる法令を出している。
  b蒙古襲来の時代はまた経済構造の転換の時期でもあった。おおよそ1220年代後半にはそれまで公事として絹布などが納められていたものが( D )化される。さらに1270年代には銭が米の役割を吸収し、年貢の( D )が一般化するといわれている。1279年、宋を倒した元は、鈔(紙幣)と銀を結びつけた銀本位制をとってほとんどの銅銭を廃したため、大量の銅銭が東アジア全域に流出し、銭使用が広まったと考えられている。
  日本で流通した銭は種類にかかわらず一枚一文だった。この単純さが、多様な銭が流通した原因ともなっていたのである。銭は千文、百文というふうにまとめて紐や藁を通して使われたが、こうした紐や藁などで通された銭をd緡(さし) とよぶ。一文銭千枚の重さが仮に3.75キログラムであったとすると、緡はかなり重い。
[問]
 1 空欄Aに当てはまる貨幣は何か。その名を記述解答用紙に記入しなさい。
 2 空欄Bについて。当てはまる語は「遠の朝廷」ともよばれた律令制下の役所である。その名を記述解答用紙に記入しなさい。
 3 空欄Cに当てはまる語を漢字4字で記述解答用紙に記入しなさい。
 4 空欄Dについて述べた文章のうち誤っているものはどれか。1つ選びマーク解答用紙の該当記号をマークしなさい。
   あ 年貢・公事を現物でなく銅銭で納めることをいう。
   い 貨幣の普及と地方市場の形成を背景に増加した。
   う 現物納のほうが( D )より有利だったので農民は現物納を望んだ。
   え 単に銭納といっても同じ意味である。
   お ( D )化にともない、貫高制が用いられるようになった。
 5 下線aについて。大輪田泊について述べた次の文章のうち、誤っているものを1つ選びマーク解答用紙の該当記号をマークしなさい。
   あ 奈良時代に行基が開設したといわれる五泊の1つである。
   い 平清盛は、石に一切経を書いて沈め、経ケ島という防波堤を完成させた。
   う 後世、兵庫津とよばれた。
   え 平家滅亡後、興福寺の支配するところとなり、入港税を徴収する権限を得た。これが兵庫北関である。
   お 応仁・文明の乱で荒廃し、日明貿易の中心港は堺に奪われることになった。
 6 下線部bに関連して。フビライによる3度目の遠征計画が本格化すると、幕府は鎮西探題を設置した。鎮西探題について述べた文章のうち、誤っているものを1つ選んで、マーク解答用紙の該当記号をマークしなさい。
   あ 西国防備と九州統治強化のため博多に設置された。
   い 北条氏一族を任命した。
   う 鎮西奉行を強化し鎮西探題とした。
   え 九州の御家人の訴訟の第一審を担当した。
   お 幕府とともに滅亡した。
 7 下線cについて。公事について述べた次の文章のうち誤っているものはどれか。1つ選んでマーク解答用紙の該当記号をマークしなさい。
   あ 荘園領主に作人が納入する税である。
   い 年貢以外のすべての雑事である。
   う 領主のための日用品は、行事や祭事の必需品がその内容である。
   え 多種多様なので、雑公事・万雑公事ともよばれる。
   お 領主のための人夫や警備のための労役も広義には公事に含まれる。
 8 下線dに関連して。一文銭千枚のことを何とよぶか。漢字3字で記述解答用紙に記入しなさい。


●慶応義塾大学 経済学部 日本史 2009年度

I 小説などの文献には社会や経済の動向が自ずから表出されている。以下の各問に掲げる江戸時代に関する資料を読んで、次の問1〜問3に答えなさい。なお資料は適宜表記を改めた。

問1 次の資料は井原西鶴『日本永代蔵』からの抜粋である。資料を読んで、以下の(1)、(2)に答えなさい。
【資料】
(A)銀五百貫目よりして、これを分限といへり。千貫目の上を長者とは云ふなり。(巻一「初午は乗つてくる仕合」)
(B)この男、家業の外に、反故の帳をくくり置きて、見世をはなれず一日筆を握り、両替の手代通れば、銭・小判の相場を付け置き、米問屋の売買を聞き合せ、木薬屋・呉服屋の若い者に長崎の様子を尋ね、操綿・塩・酒は、江戸棚の状日を見合せ、毎日万事を記し置けば、紛れし事はここに尋ね、洛中の重宝になりける。(巻二「世界の借家大将」)
     (注)反故・・・一度使った紙、見世・・・店、江戸棚・・・江戸店、状日・・・報告が届く日、洛中・・・京都
     (井原西鶴『日本永代蔵』1688年刊、『日本古典文学全集』所収)
 (1)資料中の(A)は、当時の富裕層である「分限」や「長者」と評価されるための資産基準を示した一文である。下線部の千貫目以上の資産を持つ長者とは、資産が何両以上の人をさすか。1609年に幕府が定めた金1両を銀50匁とする換算率で計算し、もっとも適切な数値を次の1〜6のなかから一つ選びなさい。
   1.200     2.500    3.2,000
   4.5,000    5.20,000   6.50,000

 (2)資料中の(B)は、藤屋市兵衛という実在の商人をモデルにした文章である。市兵衛はなぜ両替屋の手代に銭と小判の相場をひんぱんに書き留めていたのか。その理由を江戸時代の貨幣制度をふまえて、50字以内で説明しなさい。


●早稲田大学 政治経済学部 世界史 2008年度

T 次の文章を読んで、下記A、Bに答えよ。
 古来、世界ではさまざまなものが貨幣として用いられたが、歴史時代に入って以降は、金属を加工した貨幣がもっとも普通であったといってよい。イスラーム世界では、カリフの(a)アブド=アルマリクの時代に首都の[ b ]でディナール金貨 ・ディルハム銀貨 が作られて以来、それらを踏襲した金貨・銀貨が広く流通するようになった。
 中国では、始皇帝が[ c ] を統一貨幣と定めて以来、円形方孔の銅銭が主要な通貨となった。宋代にはとくに大量の銅銭 が鋳造され、日本など周辺地域にも運ばれて流通した。元代には[ d ] とよばれる紙幣が主要な通貨となるが、明代には銅銭がふたたび広く用いられるようになる。また、その海外での流通も引き続き見られた。たとえば、鄭和の遠征に参加した馬歓の(e)「瀛涯勝覧(えいがいしょうらん)」によれば、爪哇(ジャワ)・旧港(パレンバン)など、だいたいマラッカ海峡より東の東南アジア島嶼部では、中国銅銭が流通していたが、満刺加(マラッカ)では、近くに産地のある[ f ]が貨幣として使われ、柯枝(コチン)・古里(カリカット)・阿丹(アデン)などインド洋交易圏では、金貨が用いられていたという。
 16世紀頃から、中国では銅銭とならんで銀が重要性を増してくる。ただし、額面の定まった銀貨は作られず、(g)大小さまざまな銀塊が、そのつど重さを量りながら使われた。また、(h)マニラを経由するアメリカ大陸との間の貿易ルートが開かれると、スペイン=ドルなどの銀貨もそのままの形で用いられるようになった。一方、この時代には、かつて銅銭を大量に輸出していた中国で銅が不足し、(i)国内での銅鉱開発が進められるとともに、主として日本から銅地金が輸入されるようになる。
A 次の問い1〜5に対する適切な答えを、それぞれイ〜ニから一つ選び、マーク解答用紙にマークせよ。
 1 下線部aが属した王朝に関する記述として、正しいものはどれか。
   イ この王朝の時代に、オマル=ハイヤームが「四行詩集」を著した。
   ロ 西ゴート王国を滅ぼして、イベリア半島に勢力を伸ばした。
   ハ 預言者ムハンマドのいとこであるアリーが創始した。
   ニ ササン朝を滅ぼして、イランに勢力を伸ばした。
 2 空欄bに当てはまる都市名はどれか。
   イ カイロ  ロ メディナ  ハ ダマスクス  ニ バグダード
 3 下線部gのうち、ほぼ一定の形に鋳造されていて、高額の取引用として広く使われたものを、その形状から何というか。
   イ 馬蹄銀   ロ 刀貨   ハ 豆板銀   ニ 鷹洋
 4 下線部hより前に起った出来事はどれか。
   イ ロシアの勢力がオホーツク海に達した。
   ロ 薩摩藩が琉球を事実上の支配下においた。
   ハ オランダが台湾に根拠地を築いた。
   ニ ポルトガルがマカオに居留地を確保した。
 5 下線部iに関連して、三藩の乱を起こした呉三桂の勢力の背景には、重要な銅産地を掌握したことがあったといわれる。その地域はどこか。
   イ 台湾  ロ 福建  ハ 広東  ニ 雲南

B 次の問い1〜4に対する適切な答えを、記述解答用紙に記せ。
 1 空欄cに当てはまる語句は何か。
 2 空欄dに当てはまる語句は何か。
 3 下線部eの末尾部分には、「古里」から西方へ船で三か月行程の「秩遠(ジッダ)」という港の近くにある「堂」について、次のような記述がある。この「堂」とは何のことか。
  「外周りは城壁で囲まれ、・・・・その堂は・・・・方形で平たい屋根である。・・・外側は黒い緞子でもっておおい包んである。
   ・・・・毎年十二月十日には各地のイスラーム教徒が集まるが、なかには海路はるばる一、二年もかかってやって来る人もいる。」
 4 空欄fには、ある金属名が入る。後にイギリスによって鉱山開発が進められるこの金属は何か。


●早稲田大学 国際教養学部 日本史 2008年度

T 次の文章を読み、後の問に答えなさい。
  現在知られている限り日本で鋳造された最古の貨幣は、7世紀後半の(a)富本銭という銅銭である。708年には[ A ]から銅が献上されたことを契機として(b)和同開珎 が鋳造され、10世紀半ばの(c)乾元大宝まで国家的な銭貨の発行が続いた。
  (d)中世国家は独自の貨幣の鋳造を行なわず、国内通貨として(e)中国から輸入された銅銭 が流通した。室町時代以降、年貢の代銭納が広まり、商業活動が盛んになると、銭貨の流通量は著しく増えたが、その数量が限られていたため、(f)貨幣需要の増大とともに様々な問題が発生した
  (g)関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、金座・銀座をおいて全国的に通用する同じ規格の金・銀の貨幣を造らせた。その後、江戸幕府は江戸と近江坂本に銭座を設置して[ B ]を発行し、広く流通させた。こうして17世紀半ばごろまでには、これらの三貨が全国に普及するようになった。
[問]
 1 下線部(a)が、鋳造に関わる遺物とともに多数出土したのはどこか。一つ選べ。
   ア 長屋王邸宅跡 イ 志苔館跡 ウ 荒神谷遺跡 エ 飛鳥池遺跡 オ 唐古遺跡
 2 [ A ]に該当する国はどこか。一つ選べ。
   ア 甲斐 イ 出雲 ウ 武蔵 エ 陸奥 オ 上野
 3 下線部(b)に関連して、『続日本紀』に次の記述がみえる。
  又詔して曰く、夫れ銭の用たるは、財を通わして有無を貿易する所以なり。当今百姓、なお習俗に迷いて未だその理を解せず、僅かに売り買いするといえども、なお銭を蓄える者なし。その多少に随いて節級して位を授けん。
   上の法令について説明した文として適切なものはどれか。二つ選べ。
   ア この法令とともに、銭貨の偽造および偽造銭の使用を厳罰に処する旨が定められた。
   イ この法令の影響により、調・庸の銭納化を望む地方を中心に銭貨の使用が広まった。
   ウ 一定額の銭貨を蓄えるのみで、政府への納入を条件とせずに、位階を与えると定めた。
   エ 和同開珎の発行から3年後、銭貨の流通をうながすため、この法令は廃止された。
   オ 銭貨の流通を促進する目的で出され、銭貨の所有者に使い道を示すためのものであった。
 4 下線部(c)を鋳造した時の天皇の在位中に該当するものはどれか。一つ選べ。
   ア 『五撰和歌集』の編纂 イ 昌泰の変 ウ 『延喜式』の撰進 
   エ 安和の変 オ 三善清行の意見封事十二箇条奏上
 5 下線部(d)に関連して、結果として実現しなかったといわれているが、乾坤通宝と称する銭貨の発行計画を立てた人物はだれか。一つ選べ。
   ア 源実朝 イ 北条泰時 ウ 後醍醐天皇 エ 足利尊氏 オ 足利義満
 6 下線部(e)のうち、中世日本の流通貨幣の過半を占めていたのはどれか。一つ選べ。
   ア 唐銭  イ 宋銭  ウ 元銭  エ 明銭  オ 清銭
 7 下線部(f)に関連し、この当時の貨幣流通について述べた文として誤っているものはどれか。一つ選べ。
   ア 粗悪な私鋳銭の受け取りを拒否する撰銭行為が円滑な流通を阻害した。
   イ この時期に新たに輸入された明銭の中で最も多く使用されたのは永楽通宝である。
   ウ 撰銭令によって、悪銭と良銭の混入比率を定めた場合もあった。
   エ 撰銭令によって、粗悪な私鋳銭については指定して流通を禁止した場合もあった。
   オ 室町幕府が初めて撰銭令を出したのは、足利義政の時代である。
 8 下線部(g)について説明した文として適切なものはどれか。一つ選べ。
   ア 主戦場となった関ケ原は近江国の北東部にある。
   イ 豊臣恩顧の大名小西行長は、徳川家康に味方して東軍に属した。
   ウ 徳川秀忠は関ヶ原での合戦に参加できなかった。
   エ 西軍の盟主とされた毛利輝元は、戦後、長門一国に減封された。
   オ 当初西軍に属した小早川隆景は東軍に寝返った。
 9 下線部(h)にもっとも関係の深い人物はだれか。一つ選べ。
   ア 角倉了以 イ 末次平蔵 ウ 後藤祐乗 エ 後藤庄三郎 オ 末吉孫左衛門
 10 [ B ]に該当するのはどれか。一つ選べ。
   ア 寛平大宝 イ 寛永通宝 ウ 慶長通宝 エ 文録通宝 オ 天保通宝


●同志社大学 日本史 2008年度

[U]次の文章を読み、空欄( ア )から( ケ )に該当する事項をそれぞれ漢字で解答欄U−Aに、文中の(a)〜(i)に関する各設問の解答をそれぞれ番号で解答欄U−Bに記せ。  (45点)
  〜以下抜粋〜
  交換手段として幕府が発行する金銀銭の三貨幣は、共に無制限に通用することを認められていたが、事実上は、大量取引には金銀が用いられ、小額取引には銭が用いられた。金貨の計算単位は、両・分・( キ )であった。銀貨は1匁を単位とし、その10分の1を分、さらに分の10分の1を厘とし、1000匁をもって1貫とした。銭貨は1文が単位であった。金貨と銀貨は計数貨幣であったが、(h)銀貨は秤量貨幣であった。その後、銀貨については明和2年(1765)に最初の計数貨幣として明和五匁銀を造り、さらに安永元年(1772)にも( ク )を発行し、(i)この銀貨の一定枚数をもって金1両として通用させた
 【設問h】江戸時代に通用した秤量貨幣は、江戸幕府から特許された銀座で大きさや重さの異なるものが鋳造され、表面に極印が打たれて品質が保証された。これらの秤量貨幣のうち、形がなまこ形で、重さが30〜50匁の銀貨の名称を選べ。
  1.丁銀   2.豆板銀   3.小玉銀   4.宝永通宝
 【設問i】この銀貨は、品位が劣っていたこともあって不評であった明和五匁銀 の後を受け、純度98%という良質の銀を素材として金貨の代わりの銀貨として発行された。金1両に相当するこの銀貨 の枚数を選べ。
  1.2枚  2.4枚  3.8枚  4.16枚


●大学入試センター 日本史B 2008年度
【第4問】
 近世の政治・経済に関する次の文章A・Bを読み、下の問い(問1〜6)に答えよ。(史料は、一部省略したり、書き改めたりしたところもある。)
A 16世紀から17世紀にかけては日本国内の各地で鉱山開発が進み、(a)多くの銀が算出されるようになり、海外に輸出された。17世紀の半ばを過ぎるころには、銀の産出量は( ア )した。さらに、長崎へ来航する貿易船が増加したことも加わって、幕府は銀の輸出をしだいに( イ )するようになった。
 このような貿易をめぐる状況の変化を受けて、従来は輸入していた産物について日本国内での生産を進める政策が実施された。たとえば、(b)対馬藩を通じて輸入していた朝鮮人参は、幕府が栽培を成功させ、諸藩にも栽培を奨励した。その結果、国内の需要にこたえるだけでなく、18世紀末以降、長崎を通じて中国に輸出されるまでになった。
 問1 空欄(ア)に入る語句の組み合わせとして正しいものを、次の@〜Cのうちから一つ選べ。
    @ア増加 イ奨励  Aア増加 イ制限  Bア減少 イ奨励  Cア減少 イ制限
 問2 下線部(a)に関連して、江戸時代の銀貨に関して述べた次の文T〜Vについて、古いものから年代順に正しく配列したものを、下の@〜Cのうちから一つ選べ。
    T 幕府が銀座を開設し、丁銀・豆板銀を鋳造させた。
    U 外国人が銀貨を日本に持ち込み、多量の金貨を海外へ持ち出した。
    V 金貨の単位で表された銀貨が、はじめて鋳造された。
    @T−U−V  AT−V−U  BU−V−T CV−T−U
 問3 下線部(b)に関連して述べた文として誤っているものを、次の@〜Cのうちから一つ選べ。
    @ 対馬藩は、己酉約条を結んで朝鮮貿易を独占した。
    A 対馬藩は、釜山に置かれた倭館に貿易船を派遣した。
    B 幕府は、株仲間を解散して朝鮮人参座を設けさせた。
    C 幕府は、朝鮮人参とともに甘藷の普及にもつとめた。


●中京大学 世界史 2007年度(2月9日)

[TX] ヨーロッパの硬貨(コイン)に関する次の文章を読んで、下線(1)から(12)についての設問に答えよ。
  2002年にEUでは統一通貨ユーロが流通を開始し、貿易や投資、旅行などで両替する面倒がなくなった。一方で伝統的なフランやマルクといった貨幣単位が消滅したことに対して、ユーロ導入前後には抵抗感を持つ国民も少なくなかった。実際ヨーロッパ諸国の紙幣や硬貨は、それぞれの国の長い歴史を反映したデザインをもち、注意深く観察することでそこから興味深い歴史的・文化的なメッセージを受け取ることができたのである。日本では天皇の肖像が硬貨に描かれたことはないが、ヨーロッパでは国王の肖像がすべての額面の硬貨に共通して刻印してあることが少なくない。イギリスでは国王の肖像は右向きと左向きを交代して使用する慣例があり、現国王のエリザベス2世 は右向きだが、その前のジョージ6世 は左向き、エドワード8世は治世が短すぎて硬貨は発行されず、ジョージ5世 は左向き、エドワード7世 は右向きだった。同じ肖像はイギリス国王を元首とする国の硬貨でも使われている。
  旧西ドイツでは、肖像入りの2マルク硬貨を全部で7種発行したが、記念硬貨でもないのに国王以外の同時代の人物が硬貨の表面を飾るのはかなり珍しく、戦後ヨーロッパではほかにスペインのフランコ総統の例があるくらいである。その7人とは、マックス・プランク(戦前の物理学者)、[ 甲 ](首相)、ホイス(西ドイツ初代大統領)、シューマッハー(社会民主党議長)、[ 乙 ](首相)、フランツ・ヨゼフ・シュトラウス(蔵相)、[ 丙 ](首相)である。プランク以外はすべて戦後西ドイツの政治家で、故人となってすぐに発行が開始されたものであり、ヒトラーで失敗した国の、戦後民主政治の成果に対する強い自負を感じさせる。
  歴史上の人物が描かれた硬貨も多いが、ほとんどは記念硬貨である。通常流通している硬貨に限ってみると、ユーロ導入前の1980年代にギリシャで使われていたものが充実していた。5ドラクマ貨はアリストテレス 、10ドラクマ貨はデモクリトス 、20ドラクマ貨はペリクレス、50ドラクマ貨はソロンの、それぞれ横顔が描かれていたのである。
  ユーロ硬貨の表面 は共通でヨーロッパの地図が描かれているが、裏面は各国がそれぞれ独自のデザインを採用している。ただし、どの国で発行された硬貨でも、ユーロ圏のほかの国で使用できる。ベネルクス3国のように国家元首の肖像が使われている国もあるが、世界史上の文化人も写真1から3のようにいくつか登場している。
  日本の硬貨にはすべて「日本国」と書かれているが、民族問題の微妙がヨーロッパには事情が異なる国もある。広く知られているように、スイスでは4つの言語を話す人々がいるので、国名はラテン語でスイスの古い呼称の HELVETIA が使われている。ベルギーでは国名を、北部で使用されているフラマン語で表記(BELGIE)した硬貨と、南部で使用されているワロン語で表記(BELGIQUE)した硬貨が、全く同数発行されていた。分裂する前の旧ユーゴスラヴィアでは、4ケ国語で通貨単位のディナールやパラが表示されていた 。そのうち2つがローマ字、2つがキリル文字で、複雑な民族事情がしのばれる。
  日本では昭和24年発行の5円硬貨が、書体が途中変更になったものの、今日まで同じデザインで発行されている。政治経済上の変動が少なく、特に激しいインフレーションに見舞われていない国では、必然性がないために同じデザインの硬貨が発行され続ける。スイスの10サンチーム硬貨 は、途中材質の変更があったものの、1879年以来同じ図柄のものが発行され続けている。スイスは当面EU加盟を見送っているだけに、この記録はまだ続きそうである。

写真1
写真2
写真3
(上の画像はEuropean Central Bankの画像を利用しました)

問8 写真1、2、3はそれぞれオーストリア1ユーロ貨、スペイン50ユーロセント貨、イタリア2ユーロ貨であり、それぞれ各国を代表する歴史上の文化人の肖像が描かれている。
   写真1、2、3の人物名を正しく答えているものを、以下より選べ。
 (ア) 1:モーツアルト  2:セルバンテス  3:ダンテ
 (イ) 1:モーツアルト  2:レンブラント  3:ダンテ
 (ウ) 1:バッハ  2:セルバンテス  3:レオナルド・ダ・ヴィンチ
 (エ) 1:バッハ  2:レンブラント  3:ダンテ

●東京大学 日本史 2007年度
【第1問】
 8世紀の銭貨について述べた次の(1)〜(5)の文章を読んで、下記の設問に答えなさい。解答は、解答用紙(イ)の欄に記入しなさい。
 (1)711年には、穀6升をもって銭1文に当てることとし、また712年には、諸国からの調庸を銭で納める場合には、布1常を銭5文に換算するとした。
 (2)711年に、位階や職務に応じて、絹織物・糸のほか銭を役人に支給する法を定めた。また、蓄えた銭の多少にしたがって位階を授けることを定めた。
 (3)712年に、諸国の役夫と運脚の者に対して、郷里に帰るときの食糧の欠乏を救うため、銭を携行することを命じた。
 (4)東大寺を造る役所の帳簿には、銭を用いて京内の市で物品を購入したことや、雇っていた人びとに銭を支払ったことが記されている。また、山背(やましろ)国の計帳には、調として銭を納めていたことが記されている。
 (5)798年に、「外国(畿内以外の諸国)の役人や人民が銭を多く蓄えてしまうので、京・畿内ではかえって人びとが用いる銭が不足している。これは銭を用いる便利さにそむき、よろしくない。もっている銭はことごとく官に納めさせ、稲をその代価として支給せよ。銭を隠すものを罰し、その銭は没収せよ」という法令を、畿内以外の諸国に向けて出した。
設問
  日本の古代国家は、銭貨を発行し、その使用を促進するためにさまざまな政策を実行してきた。銭貨についての政策の変遷をふまえて、8世紀末に(5)の法令が出されるようになった理由を、6行以内で説明しなさい。

●早稲田大学 商学部 世界史 2007年度
[U]次の文章を読み、設問A〜Lに答えよ。解答はマーク解答用紙の所定欄に一つだけマークせよ。
 ユーラシア大陸の東端に位置する中国は、淮水を境に自然環境を異にする(A)北と南の地域に大きく分かれる。北は比較的乾燥した畑作地帯がひろがり、(B)先秦時代から貨幣を使用する商業が盛んであった。南の稲作地帯は、自給自足的な経済であったが、開発が進むにつれ人口も増加し、(C)農村間の流通経済が活発となった。こうした南北の違いは、中国史上の対外関係や国際交流に北の陸路、南の海路という形で反映している。  ・・ 以下略 ・・
 問A 下線部Aについて、南北二つの王朝が中国を統治した時代に、北半分を支配した王朝はどれか。
   1.北斉 2.後梁 3.金 4.北元
 問B 下線部Bについて、正しい説明はどれか。
   1.殷、周時代に使用された貝貨 は、主に子安貝を入手できる沿岸部で通用した。
   2.丸い形状で中に穴がある環銭 は、始皇帝による貨幣の統一後に鋳造された。
   3.春秋・戦国時代の諸侯は、素材が青銅以外の場合は貨幣として認めなかった。
   4.蟻鼻銭 と呼ばれる特異な形状をした青銅貨幣は、もっぱら楚の国で使われた。
 問C 下線部Cについて、正しい説明はどれか。
   1.中国東南地方の開発が進んだ南北朝時代の南朝では、農村にも貨幣経済が浸透し、余剰米を市場に売り出して現金収入を得る農家が現れた。
   2.唐代以降は、商業拠点でもあった県城の外の農村地帯に草市などの市場が生まれ、そこから交易拠点として市や鎮の小都市に発展するものもあった。
   3.王安石の市易法は、流通経済の進展とともに貧困の度合いを増した中小農民の救済を目的に、地域の価格差を利用した物資の廉価販売の政策であった。
   4.明の洪武帝は、農村における貨幣経済の進行が農民を奢侈に向かわせる風潮を憂い、自ら一条鞭法を定めて自給自足・質素倹約の生活を奨励した。
 問D〜L ・・・ 省略 ・・・

●慶応義塾大学 経済学部 日本史 2007年度
T 江戸時代から明治時代にかけての経済発展とヒト・モノ・カネ・情報の移動に関する次の文章を読んで、以下の問1〜問12に答えなさい。解答は、指示に従って、マークシート上の所定の欄をぬりつぶして示しなさい。
 江戸時代には、農業やさまざまな商工業の発達と(A)陸上交通、(B)水上交通の発展によって、全国を結ぶ商品流通のネットワークが形成された。交通の発展により、(C)各地では販売を目的とした商品作物や特産物が作られた。江戸、大坂、京都の三都は、商品流通の要の位置を占め、17世紀の中頃には国内有数の大都市に発展した。
 商業の発展にともなって貨幣流通も盛んになり、貨幣制度も整備された。幕府は貨幣鋳造権を独占し、金座・銀座・銭座を設けて金・銀・銭の三貨を鋳造した。(D)三貨の交換相場は変動することが多かったため、(E)両替商が重要な役割を果たした。 ・・ 以下略 ・・
 問4 下線部Dに関連して、三貨の交換相場の変動する理由の1つに貨幣の改鋳がある。次の1〜5の貨幣の鋳造開始時期を年代順に並べかえ、2番目に古いものの番号を解答欄(7)に、4番目に古いものの番号を解答欄(8)にマークしなさい。
   1.万延金 2.南鐐二朱銀 3.慶長小判 4.元禄小判 5.正徳小判

 問5 下線部Eに関連して、両替商の役割と機能について述べた次の文章の下線部1〜4のなかから誤りを含むものを1つ選び、解答欄(9)にその番号をマークしなさい。
 江戸時代には金・銀・銭の交換の際に基準相場が定められていたが、相場は絶えず変動し、また(1)西日本では主に銀貨、東日本では主に金貨が用いられていたため、両替商が重要な役割を果たした。両替商は、(2)商業の発達した三都においてのみ営業を許され、通貨の秤量や両替だけでなく(3)為替・貸付など金融業務を扱うものも多かった。また、大坂の鴻池・天王寺屋のような有力な両替商は大名貸しも行った。(4)「現金掛け値なし」の商法を営んでいた三井家も有力な両替商の1つであった。
 (他の問は略)

●京都大学 日本史B 2006年度
【第4問】
 次の問(1)、(2)について、それぞれ200字以内で解答せよ。解答はいずれも所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。
 (1)・・・略・・・
 (2)将軍徳川綱吉のいわゆる元禄時代から、田沼意次が失脚した天明年間にいたるまでの江戸幕府の貨幣政策について述べよ。

●大学入試センター 日本史A 2005年度
【第1問 A】
 近年、奈良県の飛鳥池遺跡の調査で富本銭が発見された。この貨幣は、これまで日本最古とされていた(ア)に先行するものであることが明らかになった。(ア)は、708年、武蔵国で銅が産出したのを契機に造られるようになった貨幣であり、その鋳造目的は、同時に進められた都城建設の資金に充てるためであったとされている。(a)711年、律令国家は蓄銭叙位令を発して貨幣流通を奨励し、その後もしばしば新貨の鋳造を行うが、当時は稲・麻布などの物品が貨幣の役割を果たしていたため、畿内はその周辺地域以外ではあまり流通せず、(b)10世紀の半ばの村上天皇のとき、乾元大宝が造られたのを最後に国家による貨幣鋳造はながらくとだえた。
 (c)12世紀に平清盛が対外貿易に力を注ぐと、高級織物・書籍・薬品などとともにたくさんの銅銭が流入し、流通するようになった。
 問1 空欄(ア)に入る貨幣として正しいものを、次の@〜Cのうちから一つ選べ。
@
A
B
C
 問2 下線部(a)に関連して、8世紀の出来事について述べた文として正しいものを、次の@〜Cのうちから一つ選べ。
  @奥州藤原氏が中尊寺金色堂を建て、その財力を示した。
  A平城京に東西の市が設けられた。
  B貫高によって所領の規模が表示されるようになったl。
  C商工業者が座とよばれる同業組合を結成した。
 問3 下線部(b)に関して、10世紀の政治や地方情勢について述べた文として正しいものを、次の@〜Cのうちから一つ選べ。
  @延喜・天暦の治と後によばれる政治が行われた。
  A蝦夷(えみし)支配のための拠点として多賀城が築かれた。
  B源頼朝が伊豆で挙兵した。
  C薬子の変が起こった。
 問4 下線部(c)について、この貿易によってもたらされた貨幣と平氏の政策の組合せとして正しいものを、次の@〜Cのうちから一つ選べ。
  @明銭−福原遷都
  A宋銭−福原遷都
  B明銭−朱印船貿易
  C宋銭−朱印船貿易

●東京大学 世界史 2005年度
【第3問】
 人間はモノを作り、交換し、移動させながら、生活や文化、他者との関係を発展させてきた。こうした人間とモノの関わり、モノを通じた交流の歴史に関連する以下の設問(1)〜(9)に答えなさい。
 問(3) 古代中国では、広域的交易網が活発に利用されるにつれ、図版Bに示したような中国史上最初の金属貨幣が出現した。この種の貨幣を用いていた国家は複数あり、覇権を争っていた。その複数の国家のうちから任意の3つを選び、その名称を漢字で記しなさい。
図 B
●東京大学 日本史 2002年度
【第2問】
 次の三種類の銭貨は、12世紀以降の日本で流通したもので、左から発行の古い順に並んでいる。これを見て下記の設問A〜Cに答えなさい。
@皇宋通宝
A永楽通宝
B寛永通宝
 設問A @は鎌倉時代の日本で使われていた銭貨の一例である。これらはどこでつくられたものか。また、流通した背景に国内経済のどのような変化があったか。2行(60字)以内で述べなさい。
 設問B Aは日本の遺跡で相当数がまとまった状態で発掘されることがある。それがつくられてから、土中に埋まるまでの経過を、2行(60字)以内で説明しなさい。
 設問C @Aが流通していた時代からBが発行されるまでに、日本の国家権力にどのような変化があり、それが貨幣のあり方にどのような影響を与えたか。3行(90字)以内で述べなさい。

●一橋大学 日本史 2002年度
【第1問】
 次の文章を読み、下記の問いに答えよ。
 日本における貨幣の歴史は、一般に708(和銅元)年の和同開珎の鋳造・発行に始まるとされている。その後も律令政府は、皇朝十二銭と呼ばれる貨幣を次々と発行したが、10世紀中頃には途絶えてしまった。12世紀中頃より宋銭が輸入され、商品経済の発達とともに使用範囲を広げ、後に輸入された明銭とともに中世社会における基本的貨幣の役割を果たした。16世紀にはいると撰銭問題が深刻化し、室町幕府や戦国大名は撰銭令を発布して対応したが、17世紀には徳川幕府が寛永通宝の発行などを通じて日本独自の貨幣制度を整備し、全国的な商品流通の発展を支えた。
 問1 律令政府が貨幣を発行した目的と、その使用の実態について説明せよ。
 問2 日宋貿易と日明貿易との性格の相違について説明せよ。
 問3 宋銭や明銭の使途・機能について説明せよ。
 問4 徳川幕府が整備した貨幣制度の特徴を説明せよ。

●慶応義塾大学 経済学部 2002年度 日本史
【問9(1)】
 次の棒グラフは、慶長年間以降に鋳造された小判の成分構成をしめしたものである。グラフの棒の長さは小判1枚の重さを、斜線部分は小判1枚に含まれる金含有量を示している。この図を参考にして、下の文中の(A)〜(C)、(a)〜(c)および(ア)に当てはまる事項を、それぞれの語群から選びなさい(重複使用可)。
 元禄時代になると、貨幣経済の発展がめざましく、幕府は勘定吟味役の(A)の意見を取り入れて、慶長小判と比べて金含有量を(a)元禄小判を鋳造した。その結果、物価が高騰したために、幕府は朱子学者の(B)の考えに従い、慶長小判と同じ程度になるまで金含有量を(b)正徳小判を鋳造することになった。
 その後、10代将軍家治の時代に(C)が幕府の実権を握ると、商人の経済力を活用しながら幕府財政を再建しようとした。具体的には、金中心の貨幣制度への統一をめざして(ア)を鋳造し、貨幣流通の円滑化や商品流通の拡大を図った。
 幕末開港をむかえると、大量の金流出という事態を打開するために、小判1枚の重さと金含有量双方を(c)万延小判が鋳造された。
 [(A)〜(C)の語群]
    1.新井白石 2.荻生徂徠 3.荻原重秀 4.田沼意次 5.松平定信 6.水野忠邦 7.本居宣長 8.柳沢吉保
 [(a)〜(c)の語群]
    1.増やした 2.減らした
 [(ア)の語群]
    1.寛永通宝 2.享保一分金 3.南鐐二朱銀 4.豆板銀

●東京大学 世界史 1999年度
【第2問 (A)】
 次の図Aは、ヨーロッパ各地の生活物資の代表としての小麦の価格を集成したグラフである。期間は大航海時代に先立つ1450年から産業革命に先立つ1750年まで、縦軸は小麦100リットル当たりの価格を銀の重量(グラム)であらわす(対数目盛)。ヨーロッパの最高価格が網のかかった帯の上端に、最低価格が下端にあらわれ、この帯のなかにすべての地域の小麦価格がおさまる。
 15世紀から18世紀にかけて外の世界と交渉しつつ大きく成長したヨーロッパ経済の動向を考えながら、このグラフを読みとり、次の設問に答えよ。
 問1 このグラフによれば、1500年から1600年の間にヨーロッパ全域で価格が上昇し、ほとんど3倍から4倍になっている。この現象を何と呼ぶか。漢字5字以内で答えよ。
 問2 1450年のヨーロッパにおける小麦の最高価格と最低価格との比は6.8であったが、1750年の最高価格と最低価格との比は1.8に縮小している。このことの背景にはどのような変化があったか。2行(60字)以内で記せ。
 問3 グラフ内の折れ線は、地中海沿岸a、北西ヨーロッパb、北東ヨーロッパcの代表的な都市における価格変動をしめす。中世末から近代にかけて経済活動の中心が移動したこと、aとbは17世紀前半に交差して相対的位置が交替していること、cはほとんど常にヨーロッパの最低値に近いことに注目しながら、この期間のヨーロッパの商工業と農業をめぐる地域間の関係について、3行(90字)以内で記せ。
参考図:
この図は、入試問題にはありません

●大阪大学 日本史 1997年度
【第1問】
日本の歴史に登場する貨幣について、次の問に答えなさい。
 問1 古代と中世の貨幣は、その使われ方にどのような違いがあったか、説明しなさい。(300字程度)
 問2 幕末に金貨が大量に国外に流出した原因を述べなさい。(150字程度)

●東京大学 世界史 1997年度
【第3問】
 物質文明と技術は、精神文化や制度と同じくらい、人類史の展開にとって重要な意味と役割をもつ。「もの」と「わざ」にかかわる次の設問(1)〜(10)に答えよ。
 (1)図版Aは中国の青銅貨幣で、農具をかたどったものである。この貨幣が使われていた時期における農業技術上の大きな変化を1行以内で記せ。

●中央大学 法学部 日本史 1997年度
江戸時代の貨幣制度に関する次の文を読み、下記の設問に答えなさい。
1.幕府は金・銀・銭の三貨を鋳造させて、全国に流通させた。これらの貨幣が取引の決済に利用されたが、江戸では主に( A )が、大坂では主に( B )が使用された。
2.貨幣には(1)決済に際して目方を量り品位を確かめてから授受されるものと、(2)初めから一定純度と分量を持ち、一定の形で鋳造され、価格が表示されているものとがあった。
3.金貨のうち大判は大判座で鋳造された。江戸幕府が大判座に最初に作らせたのは( C )であった。しかし、この大判は通常の取引には使用されなかった。
4.金座は、金貨の鋳造・鑑定・封印を行うために設けられた。金座は、初め大判座と小判座の両座を指したが、後に( あ )のみを指した。代々( イ )を名乗るものが( あ )を管轄していた。
5.各藩では、紙幣である藩札を発行した。しかし、藩札は発行したそれぞれの領内でのみ流通するだけであり、また、濫発の傾向が見られた。
6.1636年に初めて鋳造された( D )は、初めは銅銭として作られたが、後に鉄・真鍮でも作られた。この鋳造によって貨幣不足が解消された。
7.両替商は三貨の交換から預金・貸付、為替取組、手形発行を業務としていた。とりわけ、金・銀を扱うのは本両替であった。このうち( い )では十人両替が選ばれ、両替仲間を支配していた。
8.1695年に金銀貨幣の改鋳が行われた。これは種々の理由から、幕府の財政が悪化したので、時の勘定吟味役( ロ )の建議によって実現したものである。
 問1.文章1の( A )・( B )に該当する組み合わせを以下のうちから選び、その番号をマークしなさい。
   @A:金貨 B:銀貨 AA:銭貨 B:金貨 BA:銀貨 B:金貨
   CA:金貨 B:銭貨 DA:銭貨 B:銀貨 EA:銀貨 B:銭貨
 問2.次の貨幣のうち、文章2の下線部(1)に相当するものには1を、下線部(2)に相当するものには2を、それぞれマークしなさい。
   @宝永永字豆板銀 A天保一分銀 B宝永永字丁銀 C慶長小判
 問3.1772年に文章2の下線部(2)に相当する銀貨を発行し、通貨の統一を目指すなど、当時の幕政の実権を握っていた人物は誰か。該当する人名を以下の語群のうちから1つ選び、その番号をマークしなさい。
   @松平定信 A田沼意次 B水野忠邦 C松平信明
 問4.文章3の( C )に該当する貨幣は何か。以下の語群のうちから1つ選び、その番号をマークしなさい。
   @元禄大判 A天正大判 B享保大判 C慶長大判
 問5.文章4の( イ )に該当する人物は誰か。以下の語群のうちから1つ選び、その番号をマークしなさい。
   @後藤祐乗 A後藤徳乗 B湯浅常是 C後藤庄三郎
 問6.文章4の( あ )に該当するのは(A:大判座)と(B:小判座)のうちどちらか。該当する記号をマークしなさい。
 問7.文章5の下線部の「藩札」 を1661年に最初に発行した藩は次のうちどれか。該当する記号をマークしなさい。
   @備中松山藩 A薩摩藩 B越前藩 C加賀藩 D会津藩
 問8.問7の藩札を最初に発行した藩の出身者で、幕末にかけて藩を富ませるために藩札の活用を唱え、その後明治政府参与として財政を担当するに至った人物は誰か。該当する人名を以下の語群から1つ選びその番号をマークしなさい。
   @福岡孝弟 A由利公正 B横井小楠 C橋本左内
 問9.文章6の( D )に該当する貨幣は何か。以下の語群のうちから1つ選び、その番号をマークしなさい。
   @寛永通宝  A天保通宝  B慶長通宝  C開元通宝
 問10.文章7の( い )に該当する地名は何か。以下の語群のうちから1つ選び、その番号をマークしなさい。
   @江戸 A京都 B近江 C大坂
 問11.文章7の下線部の「十人両替」に任じられていないものはどれか。以下の語群のうちから1つ選び、その番号をマークしなさい。
   @白木屋 A天王寺屋 B平野屋 C鴻池屋
 問12.文章7の両替商として発展した豪商のうち三井高利が江戸で開いた呉服店は何か。以下の語群のうちから1つ選び、その番号をマークしなさい。
   @紀伊国屋 A奈良屋 B近江屋 C越後屋
 問13.文章8の( ロ )に該当する人物は後に勘定奉行になっているが、その人名を以下の語群のうちから1つ選び、その番号をマークしなさい。
   @堀田正盛 A堀田正俊 B荻原重秀 C新井白石
 問14.文章8の下線部の「種々の理由」に当たらないものはどれか。以下のうちから1つ選び、その番号をマークしなさい。
   @鉱山の金銀産出高が激減した。
   A時の将軍の贅沢な生活によって財政が悪化した。
   B明暦の大火の復興に多くの費用がかかった。
   C上米の措置が一時的なものに終わってしまった。
   D鎖国によって貿易利潤が減少していった。

●一橋大学 日本史 1993年度
【第1問】
次の史料は、1485(文明17)年に周防の守護大内氏によって出された撰銭令の一部である。この史料を読み、下記の問いに答えよ。
(史料には、読み下しにするなどの変更が加えられている。)(400字以内)
         禁  制
一、銭を撰ぶこと
 段銭のことは、往古の例たる上は、撰ぶべき事、勿論たりといえども、地下の仁宥免の儀として、百文に、永楽・宣徳の間廿文あて加えて収納すべき也。
一、利銭並びに売買のこと
 上下大小をいとわず、永楽・宣徳においては、撰ぶべからず。さかい銭と洪武銭・打ち平め、この三色をば撰ぶべし。但し、かくのごとく相定めらるるとて、永楽・宣徳ばかりを用うべからず。百文の内に、永楽・宣徳を卅文加えて使うべし。
           
 問1 この法令を通じて大内氏が目指したのは何か。下線部の言葉を用い、説明せよ
 問2 撰銭令は、15・16世紀に集中的に出されているが、それは何故か。貨幣流通・国家のあり方の面から、江戸時代と対比させて論ぜよ。
 問3 貨幣流通の発展は、政治制度にも影響を与えた。貫高制はその主要な一つである。貫高制の内容について説明せよ。

2005.12.30  2006.3.1 2006年度を追加 この後、毎年追加