臼 井 城
昨日は寒い雨の1日だったが、低気圧が抜けて急に暖かい日になった。
JR総武線の浅草橋駅から都営浅草線に乗って、終点で京成線に乗り換えるつもりだったら、車内の放送で「この電車はそのまま京成線の快速になります」とのこと。変な電車ではあるが、私にとっては好都合。
京成臼井駅前は、駅前広場にコンビニなどが数店並んでいる小さな町。 駅から北へ、そして西へ20分も歩くと臼井城に着く。
@城の入り口は小さなパーキングになっており、階段を登ると本丸と二の丸の間の土橋脇につく。いきなりお城の中心近くに来る城址は珍しい。
ところがこの土橋、土橋ならぬコンクリート橋である。 両脇(特に北側)の空堀は広く深く、結構なものだけにコンクリート化が惜しまれる。 元の土橋を保存するために、このようにしたらしいが、本当の土橋を見たかった、歩きたかった、残念なり。
Aこの土橋の本丸側には、虎口の両側に土塁の一部が残されている。 結構高く、土の塊と木の根が、数百年間互いに助け合っている。 土橋から攻め込もうとする敵兵に対しては、土塁の上からかなり有効に攻撃できそうだ。
B本丸は、本当に不規則な形である。 東北端に突起があり、ここからは印旛沼とその向こう岸が良く見える。 西北端は、さきほどの土塁が残されている小さな郭で、この城の防御の中心点になっている様に思える。
本丸の西側は二の丸で、本丸よりは少し広く、広い空間である。
本丸・二の丸の周囲は、わずかに高いところもあるが、本来の土塁があったのか、なかったのか、よく分からない。
C二の丸の周囲は広くて深い堀に囲まれているが、その堀の外側の車道(これは三の丸への土橋らしい)を歩くと、太田道灌の弟、太田図書の碑がある。 文明11年(1479)、この城を攻めたときに討死したらしい。
そこを北に折れて少しすると、車道から離れて堀に沿った道があった。 これ幸いとその道を選んだが、土の上を踏みしめられるいい散歩道である。
この道は段々低くなり、やがて堀の底と同じ位置にまできてしまった。
Dこれはいいところへ踏み込んだものである。 このあたりは公園化されておらず、郭の斜面の旧状が残されている。 そのまま進むと、人家の庭先の横の道につながっている。
印 旛 沼
Eもう一度本丸に戻り、東北端から印旛沼を眺める。 人家の向こう側の田畑は、当時は沼の一部だったらしく、沼はかなり大きかったようである。
沼の向こう左方向に次の目的地の師戸城がある。
地図をみても、二つの城の位置関係がよく理解できる。 沼を挟んで、お互いに攻撃しあったり、または協力しあったり、舟に乗った武者達の動きを想像するのは楽しい。 地図の中の水田の記号のところがすべて沼であったとすると、この沼は現在の3倍以上あったようだ。
師戸城を目指して、進むと、何と今日は佐倉市のマラソン大会で、印旛沼の周囲を数百人の人がマラソンしている。 係りの人に聞くと500人くらいだという。 折からの強風もあり、マラソン選手にぶつからないようさほど広くない車道を北にすすんだ。
師 戸 城
橋の近くに来ると、印旛沼の向こうに小高い丘がみえ、師戸城であることが確認できる。
この城も県の公園となっている。
城は北から、道場台、三の丸、二の丸と本丸、の3つの部分からなりたっている。
古い地図によると、三つの領域のそれぞれをつなぐ土橋はなく、木の橋が架けられていたようである。 もっとも、現在は土橋になっている。
@入った所は駐車場になっており、道場台と呼ばれるところである。 駐車場のつづきは子供の遊園地になっており、公園化のための破壊が激しい。 しかし、この道場台とそれに続く三の丸の間の空堀はよく残っている。 ここで、始めて城址らしくなる。
A三の丸に入ってびっくりした。 とにかく広い。 しかも、野球のバックネットがあるだでで何も無い。 これはこれで素晴らしい。 折から、大人5人で野球をしている(バッテリー、打者、外野×2)。
Bさらに、三の丸には(崩壊したらしい南側を除いて)周囲が高い土塁で囲われている。 しかも、内側からでも2メートル以上あり、外側からだと10メートル以上ありそうである。
C三の丸の次は、本丸と二の丸である。 本丸と二の丸の間の堀は、極めて浅く、防御用のものではなく、表の居館と奥の居館と分ける生活用のものであろう。
この本丸のベンチで、朝作った弁当を食べる。 周囲の土塁と林が印旛沼からの強い風を和らげてくれている。
二つの城は双子のようで、帰りの電車の中で、頭の中で二つの城の映像がダブってしまい、区別がつかなくなりそうになった。
京成臼井駅につくと、羽田行きの快速電車が来た。 成田と羽田を乗換なしで往復する電車があることを始めて知った。 約3時間の散策であった。
2003年3月2日
臼井城メモ
古くは千葉氏の一族の臼井氏の築城と伝えられる。
文明11(1479)、太田道灌がこの城を攻め落とすが、その後臼井氏が復帰。
16世紀中頃、原氏がこの城の城主となる。
16世紀末頃の、毛利家文書によると「一、原大炊介 臼井城 弐千騎」とある。10万石くらいか。
天正18(1590)、小田原城陥落とともに、原氏も滅亡。
代わって、家康の家臣、酒井家次が3万石の大名として入城。
慶長9(1604)、酒井氏の転封で廃城となる。
師戸城メモ
城の由来はよく分かっていない。
臼井氏の家臣の師戸氏が築城したとの説がある。