牛 久 沼
牛久駅から真南に30分ほど歩くと、「牛久沼」に着く。
周囲は25キロもあるらしいが、面積3平方キロでさほど広くなく、最大深度は3メートルと浅い。
水辺に行こうとして、道路脇の畠そばから岸に近づこうとしたが、道はそのまま湿地となり、やがて深くなり歩けなくなる。
牛 久 城
牛久沼の東北端に、沼から少しはなれた小高い台地がある。 ここが「牛久城」である。
現在は四方を田畑と人家に囲まれているが、当時は北側だけが陸続きで、他の三方は沼に囲まれていた要害だったらしい。
おりから、白い大きな鳥(おおはくちょう?白鷺?)が田から沼の方へ飛びだった。(上空には自衛隊のヘリ)
城の中心は、南北二つの郭からなる。 通説に従って、北側を二の丸、南側を本丸と呼ぶことにする。
両方とも、一辺が50〜100メートルの長方形状である。 二の丸の方が少し大きい。
北側の車道から折れて畠の横を進むと直ぐ、堀、折れ曲がった道、そして土橋に出あう。
土橋の両脇の堀は十分に深く、土橋を渡りきったところに2つの虎口が待ち構えている。
ここが、陸続きの防御の最終ラインであるだけに、この城の最大の見所である。
二の丸の内部は、すべて太い竹の林で、周囲はすべて土塁で囲まれている。 その高さは高いところで2mはある。 虎口を埋めてしまうと、巨大なプールができそうである。
二の丸と本丸の間は深い堀で隔てられており、通常なら土橋があるはずだが、見つからない。 堀底を経由して本丸に進むにはちと厳しい。 (本当は、小さな土橋があるらしい)
やむを得ず、いったん西側の帯郭に出て、堀沿いに南下し、土橋より本丸に入る。
本丸も内部は一面の竹の林である。 土塁は一部分にあるだけで、しかも高さもあまりない。
南側は絶壁で、その下に民家を見下ろせる。 (絶壁になったのは近世のことで、当時は櫓台のようなものがあったらしい)
二の丸の北側は三の丸といわれており、南北に貫いた道の両側に、敷地の広い民家が並ぶ。 有力家臣の屋敷があったところだろう。 昼田さんという苗字の家が多い。
この城は小領主の居館だったところを、後北条氏が利用したといわれているが、後北条氏が本格的に改修したとすると、本丸と二の丸の虎口のところには横矢掛を設けるなど、もっと手を加えていたのではないか、などと思った。
牛久駅からの往復を含めて、約3時間の散策であった。
2002年4月14日
このページ作成では、 の潮風さんにいろいろ教えていただきました。
牛久城メモ
天文年間、岡見氏の居城と伝えられる。
天正15年(1587)、佐竹氏・多賀谷氏の侵攻で岡見氏は滅亡。
その後、後北条氏の城となったあと、金山城主だった由良国繁が入る。
由良氏は、元和7年(1621)まで続いたが、嗣子がなく除封される。 牛久城もそのころ廃城となったと思われる。
その後牛久は、山口氏1.0〜1.5万石の藩となったが、この城とは別の陣屋が使われた。