岡 本 城   



  東京駅から館山行きの特急で約2時間、館山のひとつ手前の「豊浦」で降りる。
  ホームの陸橋から目指す岡本城址の城山が見える。
  左側のやや低い方が北手城といって本丸があり、右側の大きい方が南手城といって二の丸と三の丸があるところである。
  城山の方へ行くが、城跡への案内板が見当たらない。 おりよく歩いていた方に道を聞いたら、私持参の地図を元に丁寧に教えてくれた。

  教わった登り口には、「里見公園」の道標がある。 コンクリートの山道を数分登ると、本丸につく。
  一辺が50mくらいの三角形である。 朽ちたベンチと、城址の石碑、小さな祠がある。
  ここまではいいが、公園の真ん中にトイレがあり、景観をぶち壊している。

  本丸の北西方向に、海に向かって100m近い細い郭が続いている。
  狭いところは土橋状で、両側は高さ10mくらいの崖になっている。
  崖の下は畠になっているが、これらも外郭らしい。 山頂の郭は狭いが、これらの外郭を加えると雄に20万石の戦国大名の居城としてふさわしい。

  端まで行くと、海と、その向こうに何と富士山が見える。 しばしその景色を堪能する。

  山ねむる 山のふもとに海ねむる かなしき春の国を旅行く
  
  元の本丸に戻り、二の丸方向につながる掘り切りを降りる。
  掘り切りは深く、高さ20mはある。 本丸と二の丸は基本的にはつながっていないようだ。



  館 山 城   



  豊浦駅から再びJRに乗り、館山駅に行く。 館山駅からは歩く。 12月半ばというのに風もなく暖かい。
  地図によると途中に延長数百メートルの堀跡があることになっているので、見に行ったが、埋め立てたれてしまい宅地と畠になっている。
  少し遠回りしたが、城山下の公園につく。 城山は、頂上の天守閣風の博物館が目印になる。

  頂上の博物館は、「南総里見八犬伝」の資料のオンパレードである。 昔懐かしい東映映画のポスターまである。
  最上階に登ると、四方が望める。 真西には富士山があるはずだが、午後になったせいか、見えない。
  東方向は、館山城の外郭が望める方向である。 遠くに小さな城、砦跡、近くには堀跡が少しだが確認できる。
  城域は里見氏が伯耆に転封されたあと破壊され、また明治になって東京湾防備のため軍部によって徹底的に破壊され、郭・堀・土塁などの痕跡が全くなくなっている。

  公園口とは反対の裏手の方に降りることにする。 
  途中大きな掘り切りに出会う。 尾根伝いの細い道が、大きくV字型にカットされている。 これこそ中世の里見氏が築城したときの堀切の跡である。 この城にきて、やっと本物の城跡にめぐり合った気がした。

  館山駅まで歩く。 駅に隣接する土産物売り場で、菜の花漬けなどを買う。
  駅のホームで帰りの電車を待っていたら、新宿行きの特急が来た。

  2001年12月16日

 里見氏系図

 八幡太郎義家─○─新田義重─10代略─@義実─A義成┬B義通─D義豊
                           └C実堯┬E義堯─F義弘
                               └G義頼─H義康─I忠義
西暦当主居城できごと
1441〜初代義実白浜城結城合戦に敗れた義実が安房に移る
?二代義成稲村城 
1504〜三代義通   
1519〜四代実堯   
1533〜五代義豊宮本城1533-34義豊、実堯・義堯親子と争う(天文の内訌)
1534〜六代義堯久留里城1538第1次国府台の戦いで、北条氏綱に破れる
?七代義弘  1564第2次国府台の戦いで、北条氏康に敗れる
岡本城1570〜73岡本城築城
1578〜八代義頼  
1587〜九代義康館山城1590豊臣秀吉より安房9万石を安堵され、館山に移る
  1600関が原の戦い後、鹿島3万石を加増される。
1603〜十代忠義倉吉城1614大久保忠隣事件に連座し、伯耆倉吉3万石に転封。館山城は破却される。
  1622忠義没し、里見氏が途絶える
1814 1814滝沢馬琴により、『南総里見八犬伝』発表される