玉 縄 城



  玉縄城    地図

七曲り
  いつもの城郭史学会の見学会は、30〜40人くらいのことが多い。 ところが今日は何と120人。
  そのため集合点の大船駅に先着順に3つのグループに分かれて出発。
  大船駅から、龍宝寺を経て、七曲り坂を上ると城域である。

復元想像図
清泉女学院
  玉縄城は、本丸の広さが100メートル四方くらいあり、その周りを比高20メートルの土塁が巡っていた。
  しかしその大部分は破壊され、現在では清泉女学院高が建っている。
  本来なら勝手に入ることのできない本丸跡であるが、今日は特別の計らいで、入口のカギも開かれている。

諏訪壇内部
諏訪壇内部
  本丸東側の「諏訪壇」と呼ばれる部分で、本来なら天守台があったところと推定される。
  普段なら立ち入り禁止の小山である。
  本丸からの比高は優に20メートルはある。 往時はこの高さの土塁が周囲を巡っていたらしいのだが、現在では想像するだけで我慢する。

堀切
土塁
  諏訪壇の他には、遺構の少ない城である。
  しかし、ところどころ、断片的な堀切や土塁もないわけではない。
  まあ、完全になくなっているわけではなさそうなので、我慢しよう。


【玉縄城メモ】

 玉縄北条氏系図
 北条早雲─┬─氏綱─┬─氏康
      └─@氏時└─A為昌
 福島正成───B北条綱成───C氏繁─┬─D氏舜
                    └─E氏勝

  1512(永正9) 小田原に進出した北条早雲が玉縄城を築き、氏時を城主とする。
  1516(永正13)早雲、新井城の三浦氏を滅ぼし、玉縄城を大改修する。
  1526(大永6) 里見実堯、鎌倉を攻め、玉縄城も攻めるが失敗。
  1590(天正18)豊臣秀吉、小田原を攻める。城主氏勝は山中城を守る。
  1590(天正18)徳川家康の家臣水野忠守、3000石の城主となる。
  1625(寛永2) 松平(大河内)正綱、2.21万石で入封。
  1703(元禄16)松平氏、上総大多喜に転封し、玉縄城は廃城となる。
  1963(昭和38)清泉女学院がこの地に移転。

2011.10.1