滝 山 城
京王八王子駅から戸吹行きの西東京バスに乗る。 バスは市街地を北に10分ほど走ったところで西北に折れ、滝山街道に入る。 街道と並行して右手に丘陵が続いている。 長さ5キロほどの「加住丘陵」である。 駅から約20分で、「滝山城址下」に着く。
バス停から進むと、早速虎口が出迎えてくれる。 城の西南部にあたるところである。 大きく屈曲した車道の両側に郭が迫っている。
車道の左に小宮郭、千畳敷、右に三の丸、二の丸などの大きな郭が続く。 名もない郭もいくつかある。 千畳敷は整地され背の高い草原になっているが、その他は潅木またはクヌギ、松、杉などの林が多い。
二の丸の南側に馬出郭があるが、この郭には見所が多い。 まず、
二の丸からの入り口の土橋
がいい。 土橋の両側は深い空堀である。 郭の内部は整地され、小公園になっている。 ちょうど子供連れの家族が遊びに来ていた。 南側には土塁が残っている。 東側には空堀を隔てて、二重土塁がある。 この二重土塁は最初は郭と同じ高さなのだが、だんだん低くなり、水の手のある方向への降りる道になっている。
二重土塁を降りてゆき、水溜りのある湿地帯を抜け、再び上に登ると、城の東部の家臣屋敷郭群である。 ここにも広い郭が3つほど連続している。
家臣屋敷から二の丸に戻るところが、
大きなヘアピン
になっている。 この城のほぼ中央部にあり、最大の見所である。 Z字型に、ほぼ180度の屈曲が二回あり、両側は深い空堀である。 敵兵がここを進むと二の丸からの横矢に苦戦する。 二の丸側の虎口には土塁が待ち構えている。
二の丸の次には、中の丸が続く。
二の丸と中の丸の間の空堀
もいい。 車道のすぐそばに、これだけ保存のいい空堀に足を踏み入れることができる城跡も珍しい。 このあたり、桜の木が多く、5000本以上あるらしい。 春は花見、秋は紅葉の名所になっている。
「中の丸」とは、普通の城にはない郭の名である。 この郭は、この城の中で最も広く、城址を訪れる人にとっての中心地である。 こにあった保養所は、建物は残っているが、現在閉鎖中。 ベンチ、東屋も適当に配されていて、折から何組かの人が弁当を食べているところである。 木の間から北方に多摩川の支流「浅川」が望める。
中の丸から、
引き橋
を渡ると本丸になる。 引き橋は、この城では唯一の木の橋である。
本丸
は上下二段に分かれる。 引き橋から入った所は下段であり、整地された広場で、隅に井戸跡がある。 北の端に「霞神社」があり、神社そのものは本丸の上段部になる。 上段部には金毘羅さんがあり、ここからも浅川がよく見える
本丸の西側にも自然の小川を隔てていくつかの郭があるようだが、今日は行くことを断念する。
この城には郭が約30あり、しかもそれぞれが広い。 個々の郭の形状はさほど複雑ではないが、これだけの数の郭が有機的につながっているため、全体としての形状は、非常に複雑になっている。 さらに、空堀は深く、10m以上、20m近いところもある。 自由に足を踏み入れられることもいい。
ヘアピンの虎口、土橋も見事である。 城址の中央が車道になっているが、車道は必要最低限のところにしかなく、城址全体の保存はいい。 規模と保存の良さは優等生である。
引き橋の下を北に下ると、入ってきたところと同じような屈曲した入り口である。 ここより、滝山城を後にする。
滝山城メモ
1521 大石定重、高月城より移る。
1559 北条氏康の三男氏照、大石定久の養子となり、滝山城主となる。定久は戸倉に退く。
(このあたりの状況は、鉢形城の藤田氏の場合と似ている。)
氏照によって、滝山城は大幅に改修された。
1569 武田信玄、滝山城を攻める。武田軍2万の兵を北条軍2000で守る。
武田勝頼・信豊が先手となって攻める。三の丸で、勝頼が北条軍の師岡兼高と槍で戦う。
武田軍は攻城をあきらめ甲斐に帰る。
武田軍の帰路を北条氏政・氏照らが追うが、逆に三増(みませ)峠にて敗れる。
1587ころ、氏照、八王子城に移る。
1590 小田原の役時、氏照は主戦論者であったため、敗戦後自害。
大石定久の子の定仲は、後に江戸幕府に取り立てられ、八王子千人同心の一人となる。
木曾義仲−義宗−8代略−大石顕重−定重−定久−定仲
=氏照
高 月 城
高月城(たかつきじょう)は、滝山城と同じ丘陵の西北1.5キロほどのところにある。
交通量の多い国道を避け、農道を進むことにする。 水量の多い用水には、珍しくドジョウがいた。 田植え直前の田んぼが一面に広がり、その向こうに
高月城
が望める。
国道から、脇道にはいると、城への入り口が切り通しになっている。 道を登っていくと、数段の小さな腰郭が連続する。
道はこれらの腰郭の土塁にもなっているらしく、何度も屈曲しながら最上部にまで続く。 最上部の
本丸への虎口
は、さすが城らしく、土橋の向こうに矢倉台がある。
本丸
は広く、100m四方くらいある。 外周は木で被われ、内部は荒地、雑木、そして畑になっている。 畑は2面ほどあり、豆類、ジャガイモなどが植えられているようである。 下からの道が歩きやすかったのは、この畑仕事のためである。
本丸南部には、ごく浅い空堀を隔てて潅木の茂った土塁が周っている。 土塁の上を小さな木の枝で周りを振り払いながら、両端まで歩く。 (これは大失敗であった! しかも半袖であった)
土塁の外側は急斜面で、深そうだが、木に被われ、よく観察できない。 資料によると、この土塁には凹型の馬出しがあるそうだが、これもよく確認できなかった。
城を降り、JR「東秋留」駅まで歩く。 30分ほどの道であるが、途中何度か道を尋ねる。
駅までの途中、右手が痒いのに気がつく。 しまった、毛虫にやられた!!
(その日の夜から、右手を中心に赤い腫れが2〜300個くらいでき、痒くてたまらない。 翌日会社の診療所で美人の女医さんに診てもらったが、「ああ、やられましたね。薬出しときます。」とだけでそっけない。 痒みとの戦いが続いたが、数日後、頂いた薬のおかげでなんとか治まった。 教訓:”城址散策時は、いくら暑くても長袖を着用のこと。”)
2001年6月3日。 3時間半の散策であった。
高月城メモ
1458 上杉氏の家臣、大石顕重が築城し、二の宮より移る。
1521 顕重の子、定重、滝山城を築城して移る。
滝 山 城 (再訪)
中田正光、「よみがえる滝山城」、揺籃社 より
滝山城に再度訪れた(実は3度目である)。
昨年(2007年)12月に「よみがえる滝山城」の出版を記念したシンポジウムに参加し、滝山城のみどころなどを傾聴した。今回は、この本の中で説明されている二の丸の集中防御を中心にみてまわることにした。
永禄12年、武田信玄2万の軍勢がこの城を取り囲んだ。先鋒は武田勝頼だった。
■勝頼の軍は五日目に三の曲輪まで攻め登った。激しい死闘が繰り拡げられた。城内からは青梅の師岡城主、師岡山城守兼高が守兵を率いて出て戦った。師岡兼高は、武田勢来ると聞いて、師岡城を棄て、滝山城に篭っていたのであった。勝頼は、長槍を振り廻して戦う、師岡兼高を目指して進むと、「四郎勝頼−」と名乗って鎌槍をつけた。 新田次郎、『武田信玄』
北条軍は二の曲輪まで退いたが、武田軍は攻城をあきらめ、軍を返した。
武田勝頼が攻めたのは、まさにこの二の丸であったのだろう。
@千畳敷から見た二の丸の矢倉台
A南角馬出につながる土橋
B二の丸側から見た東馬出につながる土橋
C二の丸と中の丸間の掘切
2008年3月13日