滝 の 城   


周辺地図   武蔵野線は、東京西部の府中本町から埼玉県と千葉県を経由して再び東京に戻る不思議な線である。 ほとんどの駅名には、「新」か「東・西・南・北」のどれかが付いている。
  この武蔵野線の「東所沢駅」から2キロくらい東に「滝の城」がある。 中世、上杉氏と北条氏が争奪した城である。
  2005年1月22日、「日本城郭史学会主催」の見学会に参加した。

畑の向こう側の土塁   寒い日が続き、最高気温でも10度以下との予報であったが、陽当りのいいところでは程よい暖かさの土曜日だった。 12時15分に東所沢駅に集合したのは城好きの老若男女約50名である。 駅からは徒歩で「滝の城」をめざす。
  30分ほど歩くと、畑の向こうに50メートルほどの長さの土塁跡が迎えてくれる。
  今回の見学会の特徴は、行く先々で地元の方のお話が聞けたことである。 この土塁のところでも、土塁手前の畑の地主さんが、少し前まではもっと大きな雑木林で、手前には空堀があったと教えてくれた。
畝堀の発掘跡   さらにしばらく歩くと、つい最近に行なった畝堀の発掘跡がある。
畝堀   なにしろ、堀の深さ6〜7m、上辺の幅10m、底の幅1.4m、堀底に5m間隔で設けられた畝は高さ1.1mだったという。 人の大きさと比べると、その深さが認識できる。
  残念ながら、現在は戻すために土で埋め戻されている。

物見櫓の跡   さらに歩くと、こんもりとした小さな竹林がある。 頂上に小さな祠がある。 脇に石碑があり、浅い字で、だいぶ崩れていたが、何とか「物見櫓之跡」と読んだら、学会の西ケ谷会長から、「こんな字がよく読めますね」と感心してくれた。 今は人の背丈ほどの高さしかないが、昔は数倍広く高かったのだろう、と思う。
巡査部長さんの解説   今日の案内者は、地元の警察の奥田巡査部長さんである。 畝堀を発掘するときもボランティアとしてだいぶ活躍されたらしい。 二の郭にある社務所で、この城の歴史と現状について、20分ほど解説をしていただいた。 熱のこもった解説が終わったときは、自然と拍手が鳴り響いた。
  この社務所では、お茶と団子のご馳走になったが、この団子のおいしいのは全く予想外であった。
二の郭の外周土塁   社務所のある二の郭は、周囲と土塁と空堀で囲まれている。 土塁は50cm程度の高さではあるが、当時の面影を残してくれている。 その周りの空堀は深さ5m以上、幅10m以上あり、当時はもっと深かったであろうことから、この方面の防備はかなり固い。
本郭内の神社   ニの郭の隣に本郭がある。 さほど広くはないが、「城山神社」が鎮座している。 南側は深い絶壁であり、自然の要害になっている。
  周りに土塁が残っているのもうれしい。
本郭内の櫓跡   本郭の隅にひときわ高いところがある。 虎口をにらむ櫓台なのであろうが、風流人が富士山と筑波山をめでる高閣として利用したのではないか、とロマンチックな気にもなれる。
  長享元年(1487)、この地方の領主大石定重が、当時の文化人万里集九を自分の居城に招き、場内の高閣に「万秀」と命名してもらったそうであるが、その城が高閣がここかどうか、いまだ論争中だそうである。
本郭とニの郭間の空堀   やはり風流は風流、ここは戦のための城。 本郭、二の郭の周囲は、高さ10メートル以上の深い堀で囲まれている。 今はなだらかな傾斜になってしまっているが、当時はかなり急傾斜で、かつもっと深かったはずである。
城の南側より   城の南側には野球場などがあるが、当時は湿地帯で、江戸時代には水田が取り囲んでいたそうな。 南側の斜面には縦堀が認められるが、さほど深くはない。
  巡査部長さんのご案内で、城の周囲を見学。 案内人のおかげで、見所は見落とさずにすんだ。
  再び駅まで歩く。 歩き疲れた人たちはバスに乗ったが、バスが遅れたせいで、どちらも殆ど同じころに駅についた。
  2005年1月22日
  
 滝の城メモ

   大石氏の築城と伝えられる。 築城時期は不明。
   天文15(1546)、川越合戦で上杉氏が破れ、家臣だった大石定久は北条氏に降り、北条氏照が城主となる。
   永禄7(1564)、北条氏康、里見義弘を国府台にて破る。このころ滝の城も前線に近く、かなり緊張した模様。
   永禄12(1569)、武田信玄、滝の城を攻め落とすが、その後再び北条氏のものとなる。
   天正18(1590)、豊臣秀吉の臣、浅野長政軍、滝の城を攻め落とす。