多 気 城  


  いつもは一人で行く城跡散策だが、今日は『日本城郭史学会』が主催する「多気山城見学会」に参加した。 12時半の集合時刻に、30名ばかりのお城ファンが宇都宮駅に集った。 オジンばかりと思っていたが、若い女性もいる。
  現地までは、タクシーに分乗して行く。 同じタクシーに相乗りしたのは、横浜の方二人、地元栃木の方と私、全員お互いに初対面どうしである。

車窓からながめた城山全景   初対面の挨拶をしていると、運転手さんが、
  「そんな所にお城なんぞありましたかね。 私ここにずっと住んでいますが知りませんでした。」
  「いや、お城といっても、建物はまったくなくて、土の堀や土塁があるだけですよ。」
  「ああ、ではオシロではなくて、シロアトですね(どうも城=天守閣のイメージらしい)。 で、そこで何かの調査をされるんですか。」
  「いや、見るだけです。」
  「では見た後、どこかに集まって食事をされるんですね。」
  「いや、見終わったら解散です。」
  「・・・・・」
  タクシーの車窓から目指すシロアトが見えてきた。


案内図   街道から少し登ったところにある駐車場に再び全員集合。 駐車場入り口にこの城の「説明板」がある。
  講師より、この城のいわれ、現状、そして今日の予定などの説明がある。
  この城は、宇都宮氏の詰の城(いざという時篭る城)として築かれたが、後に本城(日常使用する城)として使われたらしい。

外郭の堀   この城は南半分の外周に延長2キロくらいの堀がめぐらされている。 堀はときに屈曲し、またときに二重堀になる。
  講師により、その二重堀の部分がよく残っている個所を案内される。 細い土塁を挟んで二列の堀が並行している。 年月で鋭角さはなくなっているが、見事に残っている。 (写真、左側の土塁の左にもう一つの堀がある)

目の前が本郭   林道を進み、林道が途切れたところあたりから山道を登る。  さほど険しくなく、適度に湿った土で登りやすい。  杉と桧が多く、広葉樹は紅葉になっている。  日陰はやや寒いが、歩いているうち体は暖まってくる。
  途中、郭跡とおぼしき削平地が何箇所かあるが、土塁や堀は確認できない。 当時の道もどこかだ分からない。
  頂上に近づくと、道はキャタピラで無残にも破壊されている。 このあたりは個人所有の山だから、地主さんが木を切るためにキャタピラで来ても文句は言えない、が、・・・。

本郭の土塁   20分ほど登ると頂上の本郭に着く。
  ここは、きれいに保存されている。 長さは100メートル以上あり、公園として整地されている。 食い違い虎口、L字型の土塁が見事に残っている。

本郭にて講師の説明を聞く   本郭の中に、東屋と、螺旋階段のついた見晴らし台がある。 見晴らし台に上に行ったが、木が邪魔をして見晴らしは余り良くない。
  講師より再び解説がある。 紅葉の美しさと、空気のおいしさを味わっていたら、講師の話を聞きもらしてしまった。

見張り台より眺めた西北の山並み   本郭の北西隅に狭いが一段高くなったところがあり、見張りの矢倉跡のようだ。 ここがこの山の最高地らしい。
  西北方向への眺めが抜群で、遠くに山脈が何重にも連なっているのがよく分かる。 山の名前は分からない。 東山魁夷の絵のようである。
  本郭の北側にも郭群が連なっているが、残念ながらこちらもキャタピラに蹂躙されている。 半年前はこんなんじゃなかった、と数名の方がぼやかれる。

本郭下の堀   本格へは真南から登ってきたが、東方向への道で山を降りる。 
  本郭の直ぐ下には堀がめぐらされている。 さすが山城、見事な傾斜である。
  降りるにつれて、こちらにも郭が何段かある。 幸いなことに、こちらはキャタピラが侵入していない。 
  細い一本道を何度も曲がりながら降りる。 湿った道で、何人かの方が足を滑らせた。

  宇都宮城   



宇都宮城の土橋の石垣   タクシーに分乗して、「宇都宮城跡」へ行く。明治に埋めたてて、殆どが宅地になっている。
  「清明館」という名の資料館があり、そこに城の模型がある。 また、資料館の裏手に最近発見された土橋の石垣の一部がある。 これが現在我々の目に見える城跡の全てである。
  関宿城といい、この城といい、江戸時代は老中を輩出した藩の城でありながら、現在に残るものはこれだけとは、余りにもさびしい。 もっとも、最近は少し復元計画があるらしい。 客寄せ天守でない、立派な復元であってほしい。

  宇都宮駅まで歩き、17:09発の大宮行新幹線に飛び乗る。 満員だった。


  2001年11月18日

 多気城メモ

  多気城(たげじょう)とも、多気山城とも言う。
  15世紀に起源があるらしいが、本格的に使用されたのは16世紀中ごろから。
  当初は、宇都宮氏の詰めの城であったが、後北条氏の侵攻が激しくなったころから本城になったらしい。
  天正12年(1584)、後北条氏が、この城を攻める。
  天正18年(1590)、宇都宮国綱、豊臣秀吉により18万石を安堵される。
  慶長2年(1597)、石高隠匿の罪で所領を没収される。国綱はその後諸国を流浪し、10年後に40歳で病没。