遠江諏訪原城


今回の城郭史学会のバスツアーは、遠江諏訪原城である。
東京から貸し切りバスで、4時間。 案内人は、島田市の学芸員の萩原さんである。

⇒「国土地理院地図」

中馬出南端
中馬出北端
この城の最大の特徴は、丸馬出が良好な形で残っていることである。
二の郭を取り囲むように5つの馬出があるが、その中でも「中馬出」は素晴らしい。
半月状の郭と、その周りの深い切り岸の堀がそのまま残っている。 ほどよく手入れされているため、灌木などもなく、見晴らしは最良である。


北馬出
一番北にある「北馬出」は不思議な存在である。 城域の端の袋小路のようになっている。 どのような役割なのか、理解に苦しんだが、『中世城郭事典』にわかりやすい解説があったので、以下に引用する(一部用語を編集しました)。
■中馬出は、北馬出とセットになっている。台地縁は、正面攻撃をさける敵がしばしば回りこんで危険なため、この北馬出を置いている。 しかしこの北馬出は単に台地縁からの敵の侵入を防ぐだけではない。 北馬出自体が袋小路の曲輪で、軍学にいう逆心曲輪となっているのである。
北馬出の土橋から入った敵は、中馬出に進もうとするが、北馬出の横合いの攻撃を受け、はさみ討ちにあう。 北馬出を先に制圧しようとすれば、中馬出からと二の郭からの攻撃にうけなければならない。 しかも、その北馬出を制圧しても袋小路のため、攻城側にメリットはなく、その上二の郭からの攻撃は常に続くのである。
逆心曲輪の名は、『武教全書』によれば、はさみ討ちにするためにあたかも味方に向かって攻撃するように見えるので、名付けられたという。
入り口には、想像の門が復元されている。

 
二の郭への土橋
二の郭内部
中馬出から土橋をわたると二の郭である。
二の郭は中学校の運動場が二つ分くらいの広さがあり、その中央に広い台地状の小山がある。 これも土塁とのことだが、用途が今ひとつ見えない。


本郭への土橋
本郭内部
二の郭からさらに土橋をわたると本郭である。 本郭の西側は、幅の広い土塁であり、その中に内枡形らしいものがあったそうである。 土塁とは言っても、多門櫓級の大きさがある。
案内人からは、発掘時の情景や、牧ノ原礫層などの専門用語を交えての説明で、土塁、堀などの説明がある。


(左)大手郭と(右)惣郭間の堀
(右)二の郭の外堀
(右)本郭と(左)二の郭間の堀
この城は、全体として郭間の高低差は少なく、その代り深い堀で隔てられている。
もっとも大手郭と惣郭間の堀は、生活の場に近かったせいもあり(一帯は茶畑)、かなり浅くなっている。


城は、東海道に接している。 城からは、大井川を挟んで、向こうに島田宿、手前に金谷宿が見渡せる。
ほどよい散策路が整備されており、堀底の灌木が整理されるなど、見学は快適である。
金谷宿
城下を望む 大井川の手前が金谷、向こうが島田
島田宿


  諏訪原城メモ
永禄12(1569)、武田信玄が築城。馬場美濃が初代城主となる。その後、今福丹波らが城主となる。
天正3(1573)、徳川家康、この城を包囲する。 二ヶ月後、城兵はこの城を捨て、小山城に退却する。
天正6(1578)、松平家忠、この城に入り、修築。
天正9(1581)、松平康親、城主となる。
天正10(1582)、松平康親、三枚橋城に移り、おそらくこのとき廃城となる。


 2019年5月11日