新 府 城   



城跡概要図   秋晴れの日、早めに起きて、武田氏最後にして最大の城、「新府城」へ行くことにする。
  JR中央本線の「高尾」駅から各駅停車で約2時間、「新府」駅につく。 駅舎も駅員もいないホームだけがある駅で、切符を渡す相手もいない。
  
想定復元図   駅から、もも、ぶどう、きうい、などの畑を横目に進む。 遠くに富士山も見える。
  10分ほど歩くと、(旧)甲州街道にぶつかる。
  甲州街道の西側の山の全体が「新府城」である。

  (右の二つの図は、本丸の案内板の「想定復元図」と「新府城跡概要図」を編集したものです。「想定復元図」をクリックすると、大きな画面が表示されます。)


本丸への石段   甲州街道を横切ると、目の前に急な石段がある。 石段は明治以降に作られたもので、武田氏の時代は、ここは天然の防御壁になっていたはずである。
  石段は急勾配で200段以上もあり、となりにある「乙女坂」と名づけられたつづら折の方が歩きよい。
  
  ⇒ @(旧)甲州街道から本丸跡の「藤武神社」への石段


本丸内部   階段を登りきったところは、この城の「本丸」である。 本丸は、広い。 100×150メートルといったところであろうか。
  東隅に「藤武神社」、北隅に武田勝頼を祭った祠などがある。
  外周はほとんど全体にわたって高さ1メートルくらいの土塁で囲われている。
  内部は、完全には平坦ではなく、ゆるやかな傾斜がある。 大きな窪みがあるが、池でもあったのだろうかと想像する。

  ⇒ A本丸内部


本丸の眺望   本丸からの眺望はすばらしい。
  眼下に甲州街道を見下ろせ、北方遠くには「八ヶ岳」が望める。 西方から甲斐に侵入した敵軍は、すべてこの城の兵の目にさらされることになる。
  南方は、深い木々のため眺望はないが、当時は「富士山」が望められたことであろうと思う。
  
  ⇒ B本丸北方の眺望


植え込み土塁   本丸の西側の二の丸との間には、不思議な空間がある。
  その真ん中に「植え込み土塁」と呼ばれている30メートルくらいの土塁が残されているが、どのような目的のものかよくわからない。
  しかし、きれいに残されていてうれしい。
  
  ⇒ C本丸西側の植え込み土塁


二の丸内部   植え込み土塁の上を進むと、「二の丸」である。
  二の丸も結構広い。 70メートル四方くらいである。 内部は、背丈の高い秋の草花が生い茂っている。 赤とんぼがいっぱい飛んでいる。 時折、小鳥のさえずりも聞こえる。
  
  ⇒ D二の丸内部


二の丸の土塁   二の丸の外周の土塁もよく残されている。 観光化が芳しくないと、遺跡は程よく残されていて気持ちいい。
  西方は急な崖になっており、「釜無川」に接しているのかと想像していたが、川までは100メートル以上ありそうである。
  土塁には栗の木があり、所々栗の実が落ちている。 しかしイガばかりで、中身は小さい。

  ⇒ E二の丸外周の土塁


三の丸   本丸の南側の一段低いところに、「三の丸」がある。 内部は、雑木と雑草で覆われている。 
  ここも本丸と同じくらい広いが、高い土塁で東西二つの曲輪(「西三の丸」、「東三の丸」)に分割されている。 分割の目的はよくわからない。

  ⇒ F東三の丸(左側に東西の三の丸を分割している高い土塁がみえる)


車道   本丸から、三の丸の南側をぐるっとまわって、甲州街道に続く車道がある。 見学には非常に便利であるが、後年に作られたもので、この車道のため、当時の登城ルート(または、攻城ルート)が見えにくくなっている。
  コンクリート舗装の道路を想像してたが、あまり広くない砂利道なので少しほっとした。
  
  ⇒ G車道(左側が三の丸)


大手の虎口   最後に訪れたのが「大手口」である。
  桝形と、その外側の半円状の馬出しに、合計三重の土塁がさほど広くない空間に整然と造作されている。
   武田流築城術の典型が見られるところだけに、周囲も含め、もう少し整備されていたらな、と少し残念。 しかし、破壊されるよりはよしとしようか。
  秋の日の2時間の散策であった。

  ⇒ H大手の虎口


岩殿山城   天正9年12月、武田勝頼は、甲府の「躑躅ケ崎館」より、新築早々の「新府城」に移ってきた。
  ところが3ケ月後の天正10年3月、織田・徳川連合軍が攻めてくると、武田軍は防ぎきれず、勝頼は新府城を捨て、重臣小山田氏の「岩殿山城」へ逃れようとする。 しかし、その小山田氏にも裏切られ、途中で自刃し、武田氏400年の歴史を閉じた。 その時、勝頼37歳。
  JR中央本線の「大月」駅からは、この「岩殿山城」の巨大な岩山が望める。
  
  ⇒ 大月駅から望む「岩殿山城」


 新府城メモ

   天正3(1575)年5月、長篠の戦で武田勝頼大敗。
   天正9(1581)年2月、新府城を築城開始。普請奉行は真田昌幸(幸村の父)。
      12月、武田勝頼、甲府躑躅ケ崎館より新府城に移る。
   天正10年3月、織田信長・徳川家康が攻め入り、勝頼は岩殿山城に逃れる途中自刃。武田氏は滅亡。
       8月、信長亡きあとの甲斐をめぐって徳川と北条が争う。徳川家康は新府城を本陣として北条軍と対峙する。
   天正11年春、徳川家康、甲府に新しい城を築城開始。新府城は廃城となる。
  2006年10月8日