世田谷城   


周辺地図
  世田谷(現世田谷区世田谷、古くは武蔵国荏原郡世田谷村)は、江戸と小田原を結ぶ相州街道の街道町として栄えたところ。
  ここに東京都区内では珍しい城跡がある。


   
世田谷のボロ市
世田谷のボロ市
 ● 世田谷のボロ市

  毎年12月15、16日と1月15、16日の4日間、世田谷区世田谷で「ボロ市」が開かれる。
  あまり広くない通りに、小さな露店が並ぶ。 600軒くらいあるだろうか、衣服、瀬戸物、食べ物、骨董品、おもちゃなどなどである。ボロ市の会場は、まさに宿場町の世田谷あった場所に一致している。
  たいそうな賑わいであるが、今日は平日なので少ないらしい。ある店主が、”明日(土曜日)は地面が見えなくなりますよ”と話していた。

   
世田谷城跡公園
世田谷城跡公園
 ● 世田谷城跡公園

  ボロ市会場を北上すると、住宅街の一角に「世田谷城跡公園」が残されている。
  かつての世田谷城のごく一部で、最南側にあった曲輪である。 あまり広くない曲輪と、その周辺の空堀の形状が確認できる。



   
豪徳寺
豪徳寺
 ● 豪徳寺

  豪徳寺は、大老の井伊家の菩提寺、この中に井伊直弼の墓もある。
  三重の塔や、唐破風の建物が東京では珍しい。
  ここは、世田谷城の三の丸のあったところで、墓地も含めると広大である。



 世田谷城メモ

  1346年、吉良貞家、奥州探題となる。
  1400年ころ、吉良治家が世田谷の領主となり、世田谷城を築く。
  1480年、吉良政忠、豪徳寺の前身の弘徳院を建立。
  1562年、北条氏康の娘が吉良氏朝に嫁ぐ。このとき、大叔父の北条幻庵が花嫁に「幻庵覚書」を渡す。
  1578年、北条氏政、世田谷に楽市を開く。ボロ市の始まり。
  1590年、小田原合戦。このときには廃城となっていたと思われる。
  1633年、世田谷一帯(弦巻、用賀、上野毛、下野毛を含む)が、井伊家の領地となる。
  1659年、豪徳寺と改称。
                ┌(4代)─尊氏
  源義家─○─足利義康─○─○┼[奥州吉良]義継─○─○─貞家─○─[世田谷吉良]治家─(6代)─氏朝
                └[西条吉良]満氏─(12代)─義央
  2006年12月15日