関 宿 城
関宿(せきやど)城は、千葉県の西北端にある。 利根川と江戸川の分岐点に位置し、陸運より水運が便利だった時代では、交通の要衝としての役割を果たしていただろうことは容易に想像できる。
しかし、今では陸の孤島に近い。 大宮から東武野田線に乗って、「川間」駅に降りる。 ここから関宿へのバスは1時間に1本で、しかも出たばかり。 やむを得ずタクシーを利用する。(5千円近くかかる)
上の地図と、博物館にある城の模型を比べると、城域の様子が分かる。
西北端の本丸の周りに二の丸、三の丸、武家屋敷地が取り囲んでいる。 しかし、 明治以降の治水事業がその全てを埋め立て、今は農地と民家になっていて、城と城下町の片鱗は全くない。
さてその博物館である。 城の形をした博物館ではあるが、城跡にあるわけではない。 元河川敷だったところを埋め立てた所である。 また建物も一回り以上大きくなり、本来の天守閣は3層だったはずだが、博物館は4層である。
入場料は無料であり、内部はきれいである。 内部には治水に関わる展示が多い。
最上階からは利根川、江戸川、筑波山が見える。 天気がいいと富士山も見えるらしい。
博物館より江戸川の土手沿いに600メートルほど下流にゆくと、小さな公園がある。 これが本丸跡である。 本丸跡といっても、土手の横腹が少し突き出ている場所に、城址の碑と説明板があるだけである。
これが現在の関宿城の全てである。 江戸時代に老中を輩出した藩の城跡としては、いかにも淋しい。
幕末、関宿藩は、勤皇と佐幕の二派に分かれて分裂した。 城跡も、そのような血なまぐさい歴史も、共に洪水が流してしまっている。
利根川と江戸川を横切る秋風が心地よい。
2001年10月13日
関宿城メモ
長禄元年(1457)、古河公方足利成氏の家臣、簗田成助が築城。
天正2年(1574)、北条氏政が攻め落とすが、その後再び簗田氏が在城。
天正18年(1590)、徳川家康が関東に入国すると、異父弟松平(久松)康元を関宿藩2万石に封ずる。
その後、小笠原氏、北条氏、牧野氏、板倉氏が代々の領主となる。
承応3年(1654)利根川を東に流れるように改修される。
寛文9年(1669)久世広之が藩主となり、これ以降少しの例外を除いて、久世氏5〜6万石の藩となる。
久世氏は、広之、重之、広明、広周らが代々老中となり活躍する。 特に広周は、井伊直弼を批判し一時失脚するが、復帰後公武合体を推進し、和宮降嫁を実現する。