小山の城めぐり


今回の城郭史学会のバスツアーは下野南部である。
小山城などいくつかの古城を訪問する。
@ 鷲城
A 神鳥谷曲輪
B 小山御殿
C 祇園城
D 喜沢土塁
E 中久喜城
F 結城城
実は小山へは16年前に訪れている。
そのときは、小田林駅⇒中久喜城⇒祇園城⇒小山駅と、およそ7キロをひたすら歩いた。

   @ 鷲 城   

鷲城南部の切岸
本丸部の鷲神社の入り口
本丸(中城)の虎口の横矢
西側に広がる遊歩道
  この城は、小山氏の初期の居城である。
  城域は、南北二つの曲輪からなり、北の「中城」が本郭、南の「西城」が二の郭に相当する。
  どちらも200メートル四方くらいあり、中世の城の郭としては、少し広すぎる感がある。
  城の西と北は「思川」に面した切り岸に守られ、南側にも切り岸が残る。
  「中城」は神社と広大な畑で、「西城」は住宅街である。
  城の西側の思川河川敷には広い公園があり、多くの家族連れが秋の日差しと紅葉を楽しんでいる。

  鷲城メモ
永徳元年(1381)、小山義政が鎌倉公方に対して蜂起する。 このときの小山氏の本拠地がこの城である。 この城では熾烈な攻防戦があった。
翌々年、鎌倉公方に破れ、小山氏はいったん滅ぶが、結城氏より養子が入り家名はその後も残る。

藤原秀郷─(7)─小山政光─┬─朝政─(7)─義政─(6)─秀綱
              ├─長沼宗政─(14)─皆川広照
              └─結城朝光─(8)─氏朝─(4)─晴朝─秀康

   A 神鳥谷(しととのや)曲輪   

JR宇都宮線の向こうに土塁跡
土塁跡
  小山氏の居館跡と伝えられる。 周りに堀と土塁を巡らした1町四方の方形の居館で、典型的な中世の居館である。
  ただし、現状ではその真ん中をJR宇都宮線が突き抜け、土塁のほんの一部が残されているだけである。
  この土塁も、破壊されていないのはよしとしたいが、まったく手入れされていない。 雑木林そのものである。

  神鳥谷(しととのや)曲輪メモ
。。。。

   B 小山御殿   

北西にある櫓台の切岸
小山御殿跡
  小山市役所に隣接した広場が、小山御殿跡とされている。
  御殿を想像させるものは何もないが、西北隅に小さな郭跡がある。
  この郭は20メートル四方の正方形で、土橋でつながれている以外は、深い切り岸と内堀で囲われている。 この部分だけは中世の城郭である。
  御殿を守る櫓台があったことが想像される。

  小山御殿メモ
慶長5年(1600)、徳川家康が会津征伐の途上、この地に御殿を設ける。 いわゆる小山評定がここで行われたと言われている。

   C 祇 園 城   

本丸土塁と白い猫
本丸北部の横堀
塚田曲輪北部の土塁
二の丸と上段曲輪間の橋
  祇園城は、小山氏の居城。 もっとも、当初は鷲城が本城で、この城は支城のひとつ。
  1382年に小山義政の乱が平定された後は、結城氏より入った小山氏がこの城を本城としたらしい。
  城域は、中央の大きな堀切を挟んで南北二つの郭群に分かれる。
  南側は本丸と二の丸と想定されている。 一部に土塁が残るが、内部は公園化し、本丸と二の丸を分けていたはずの堀の痕跡が見つからない。
  北側には中曲輪、上段曲輪、塚田曲輪などが十分に深い堀切で仕切られている。 塚田曲輪は、銀杏の落ち葉の黄色と、一昨日の雪の白が見事な対照を示している。

  祇園城メモ
永徳元年〜3年(1381〜3)の小山義政の乱では、この城も戦乱に巻き込まれる。
乱後、結城氏からきた小山氏の居城となる。
天正3年(1575)、北条氏照、祇園城の小山秀綱を攻める。 秀綱は常陸の佐竹氏を頼る。
天正10年(1582)、織田信長の調停により、小山秀綱に返される。
天正18年(1590)、豊臣秀吉により、小山領は結城氏に与えられる。
慶長6年(1601)、結城秀康、越前に転封。
慶長13年(1607)ころ、本多正純、小山3.3万石で入封。
元和5年(1619)、本多正純、宇都宮に転封。 祇園城は廃城となる。

   D 喜沢土塁   

土塁上部
土塁から降りるところ
  中世古文書の中に、「祇園城喜沢口」の文言があり、その存在が不明であったが、近年この地に門構えの跡が発見され、それに続く土塁とともに、喜沢口がこの地に比定された。 遺構は駐車場と住宅街でなくなっているが、100メートルほどの土塁は健在である。

  喜沢土塁メモ
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   E 中久喜城   

本丸全景
物見跡に残る土塁
雪が残る本丸内部
本丸を囲む土塁
  中久喜城は、さほど高くない舌状台地の先端部にある。
  東西と南は広大な田畑であるが、往時は城を守る湿地帯だったようである。
  城跡として残されているのは、最南部の本郭部だけであり、その北はJR水戸線で分断されている。
  周囲は土塁で囲われているようだが、手入れもされておらず、雑木林そのものである。
  本丸とおぼしきところは、16年前に来たときは畑があったものだが、今はそれもなく、ただの荒野である。

  中久喜城メモ
小山鷲城や祇園城、結城の支城と考えられる。
慶長6年(1601)に結城秀康が越前福井に転封されたとき、廃城となる。

   F 結 城 城   

本丸の切岸
本丸内部
  既に夕暮れとなり、結城城へは、ほんの少しだけの立ち寄りとなった。
  
  結城城メモ
天正18年(1590)、結城晴朝は徳川家康次男の秀康を養子に迎え、自身は中久喜城に引退する。
元禄13年、水野勝長1万石で入封。 のち1.8万石で明治に至る。


 2016年11月26日