大多喜城   


大多喜城周辺の地図
左の赤い部分が中世の小田喜城
  朝早く起き定番の弁当を作り、リュックをしょって愛用の自転車で家を出る。
  東京駅のながーい道を歩き、外房線の特急に乗る。
  大原駅で「いすみ鉄道」に乗り換える。 車両がひとつのワンマンカーで、電車ではなくヂーゼルである。 乗客は十数人、ごとごと田園の中を進む。 道路に出会うたびにカンカーンと信号の音色がいい。
  11時すぎ、大多喜駅に着く。 駅から林ごしに天守閣姿の博物館が見える。

  博物館と、博物館にある大多喜城の模型
  駅から、メキシコ通りという、優雅な名前の道を進む。 右手(北)に城跡、左手に夷隅川、城の南側は天然の要害になっている。 城側の絶壁は予想外に高く、3、40メートルくらいはあり、川底も深い。

  博物館から見る場外
  30分ほど歩くと、本丸跡にたっている博物館に着く。 博物館には、中世上総武田氏の系図などが展覧されている。
  博物館から眺める夷隅川が眺められるが、護岸工事など見当たらない天然の川の美しさがすばらしい。
  

  裏にある土塁
  殆どが現代の城であるが、”天守閣”のある本丸の周りを歩いていたら、東側の高等学校側に通じるように折れ曲がった道とそれを守るような土塁を発見。 かつてはもっと深く堅固であったろうと想像する。
  
  

  中世の小田喜城の虎口
  現在の大多喜城の北にある「栗山」に中世の「小田喜城」があったと書物にあり。
  地図を頼りに20分ほど歩くと、農家の脇に山に登れそうな細い道がある。 山道ながらコンクリート舗装されている。 コンクリートは土の道となり、数分登ると、虎口とおぼしきところに着く。

  中世の小田喜城の本丸
  虎口の先は、桃源郷とはいわないが、一種別世界の平地が開いている。 全体ではかなり広く、100メートル以上ある。 そしてその中が、十数個所のこじんまりした曲輪にくぎられている。 曲輪の高低差は殆どなく、境界は狭い溝(通路?)で仕切られている。
  曲輪の中は栗、竹などの雑木林になっているが、中に大きな貯水タンクがあったりする。 木々で見通しが悪いが、周囲に土塁のようなものは見当たらない。
  つい最近草を刈った跡や、人の足跡がある。 何のためかはよく分からない。

  城下にある渡辺家
  最盛期には本田氏10万石の城下町で、明治になっても千葉中央部では最大の町だったはずだが、今はそのおもかげは少ない。
  明治の初め、鉄道に反対し、それが元でさびれてしまった。 街道沿いに、古い商家がそのまま保存されている。

 大多喜城メモ

   大永元年(1521)ころ、上総武田氏が築城。このころは「小田喜城」と称する。
   天文13年(1544)、武田氏、苅谷ケ原の戦いで正木時茂に敗れ、城は正木氏のものとなる。
   天正9年(1581)、正木憲時、里見義頼に反旗を翻し破れる。城は里美義頼の次男が正木時茂と名乗り入城。
   天正18年(1590)、里見氏の上総の所領は徳川氏のものとなり、家康の重臣、本多忠勝が10万石の大名として入城。 このとき、「大多喜」と改称。
   慶長5年(1600)、本多忠勝は伊勢桑名に移り、次男忠朝が5万石の城主となる。
   元和元年(1615)、本多忠朝、大坂の陣で討ち死。 この後、阿部氏、青山氏、稲垣氏、大河内松平氏など譜代大名が城主となり、明治維新を迎える。


  万 喜 城   


万喜城周辺の地図
周辺の夷隅川は、左から右へ流れている。
  駅に戻ったが、上りの列車まではだいぶ時間があるので、駅前に並んでいたタクシーを利用することにする。
  「今朝は11時ころからここでずっとお客さんを待っていたんですよ」、と運転手さん。
  運転手さんはよくしゃべる。 鉄道の話、お城の話、・・・
  万喜城からは少し離れたところで下ろしてもらい、20分ほど歩く。 中学生らしい男の子にすれ違ったが、「こんにちは」と挨拶された。 あまりに意外だったので、ちゃんと返事できなかった。
  道の両側には、庭のゆったりした家が並ぶ。

  万喜城遠景。左半分(北側)が城域。
  城は小高い丘陵にある。
  最も高いところに、なにやら不思議な形をした天守閣の形をした望楼が見える。 全く不思議なデザインだ。
  

  望楼からみた二の丸とその周り
  コンクリートで舗装された道を登りきると本丸跡であり、その傍らに一層高くなったところがあり、その頂上にかの望楼がある。
  望楼からは天気がよければ富士山も見えるらしい。 しかし今日は曇り空、山々のは見えるが、富士山は見えない。
  地元の親子連れが数組、休日を楽しんでいる。

  本丸脇の曲輪
  本丸も二の丸も公園になってしまっているが、本丸の南側に小さな曲輪がある。 本丸の南側を守るように、本丸より2メートルくらい高い不思議な曲輪である。
  確かに、この城全体はそれほど堅固ではなく、特に南側の尾根伝いは弱点のひとつで、それを補強するための曲輪としては、十分納得できる配置である。

  いすみ線・国吉駅
  国吉駅まで歩く。 農作業をしていた人から、どこから来られましたかと声をかけられた。 国吉駅から大原駅まで再びいすみ線の列車に乗る。 季節がよければ沿線には桜、菜の花、あじさいが満開になるらしいが、あいにくこの季節はそのどれもない。
  大原から、東京まで特急に乗ろうとしたが、さらに少し待って新宿行きの特急に乗ることにする。
  隣の席はあいていたが、途中の駅で乗ってきた女性が、「ここあいていますか」と問われ、ここは指定席だといったら、あきらめて自由席の方に行ったが、しばらくして再び戻ってきた。 きれいなお姉さんだったが、新宿に着くまで、話しかけるチャンスを逸してしまった。 残念。

 万喜城メモ

   応永19年(1412)、土岐頼元が攝津よりこの地に移ったとの説があるが、詳細不明。
   その後、一時里見氏と友好関係を結ぶが、後小田原北条氏の支配下となり、たびたび里見氏に攻められる。
   天正18年(1590)ころの「関東八州諸城覚書」には、
         一、まん木の城 一、へびうかの城 一、鶴賀ノ城 三ケ所土岐少弼(義成) 千騎
  とある。 関八州全体で5万2千騎だったことからすると、1000騎は5万石くらいに相当すると思われる。
   天正18年(1590)の小田原合戦後に、徳川家康の重臣本多忠勝が一時入城するが、忠勝は大多喜を本城としたため、この城は廃城となる。

 2004年10月24日