岡 崎 城
小田急線「伊勢原」を降りたのは、10時過ぎであった。自分の弁当を作るついでに、野球部の練習試合で朝6時に家を出る息子の弁当を作るため、朝5時起きでふたり分の弁当を作ったが、再び布団でひと寝入りして出発したため、到着が予定より遅くなってしまった。
駅に降りるのは、やや年配のリュック姿のグループが多い。この駅は、大山参りの駅だ。
駅からまっすぐ南へ20分ほど歩き、そして西に折れて少し坂道を登ると
「無量寺」がある。ここが、岡崎城址の中心地である。
岡崎城は、無量寺のある郭と、その西側に連続した3つの郭からなっている。これらは、便宜上、「無量寺郭」、「北郭」、「中郭」、「南郭」と呼ばれている。
無量寺郭は、お寺、人家(住職さんの家?)、お墓、裏手のお稲荷さんから成り立っている。外周よりは一段高くなっているが、土塁があるわけでなく、内部に城跡らしさは全く感じられない。
境内の墓地の裏から、北郭に行ける。無量寺郭と北郭の間は多少低くなっているが、掘り切りは感じられない。
北郭は、40m×80mくらいの一面畑である。豆類などの野菜が植えられているが、休耕中なのか、種をまいたばかりなのか、土だけのところが多い。
ここにも周りの土塁はないが、無量寺郭との地続き以外は、外周より2〜5m高くなっている。
北郭を外から見ると、数メートル高さの急な斜面(「切岸」)が確認できる。郭の周りは竹林が取り囲んでいる。
中郭の東側に畑があり、その畑の脇を進むと、5m以上の高さの上に中郭がある。落ち葉が積もった急な斜面だが1mおきくらいに生えている竹につかまりながら、何とか上まで登れる。登りきったところは、中郭と北郭の間の掘り切りだった。
中郭を見て驚いた。北郭とは全く異なり、一面の原生林である。ジャングル風の景色で、足の踏み場もない。
南郭への入り口はよくわからず、遠くから眺めるだけで我慢する。
岡崎城メモ
12世紀末、三浦義明の弟岡崎四郎義実が築城したと伝えられる。嫡男義忠は真田城を守る。
1455年 上杉方の三浦義国、足利成氏方の岡崎城を奪う。
1494年 義国の養子、三浦道寸義同の居城となる。
1512年 北条早雲、義同の守る岡崎城を攻める。義同は厨子の住吉城に逃れる。
1516年 新井城において三浦氏滅亡。
この後、北条氏の持ち城となるが、その後の状況不明。
桓武天皇−○−○−平高望−5代略┬三浦義明┬義宗−和田義盛
│ ├義澄−義村
│ └佐原義連−8代略−三浦義国−義同−義意
└岡崎義実−真田義忠
真 田 城
岡崎城から南に行くと、「岡崎神社」がある。このあたりは、「岡崎南部方形囲郭群」というらしいが、よくわからない。
神社の樹齢400年以上のかやの大木の下に真新しい石製のテーブルと椅子があり、ここで朝作った弁当を食べる。
社の階段を下り、大根川の土手道を西に進む。30分ほど歩く。空にはひばりの鳴き声が盛ん、川には大きな鯉が多い、そうだ今日はこどもの日だ。薄い雲が覆っているが、暖かく、五月の風が心地よい。
川の両側は一面の田だが、この季節休耕しているところが多い。ところどころ、麦が大きくなっている。三浦一族はこの肥沃な土地を支配していたのか。
大根川より少し南の台地上に真田城址がある。北側から入ろうとしたが、「危険、ここからは入れません」の立て札で、裏口からの進入を拒否している。
ぐるっと南側に回り、お寺の正面から入る。入り口に「源頼朝 石橋山合戦の勇将 眞田与一義忠公霊場 眞田城址 天徳寺」の看板がある。ただ、これ以上詳しい城址の説明板は見つからない。
内部は、南半分がお寺、
北半分がお墓と畑になっている。この領域が城の本丸であろうか。ただ一つの郭からなっているのか。
郭の南側には普通の人家に連なり、その間に仕切りは見つからない。南側が大手だったと思われるのだが、往時は土塁と掘り切りに守られていたのであろうか。
北側と西側は、数mの段差があり、郭の下は畑または草原になっている。東側には、掘り切りらしい谷を隔てて竹林がある。
帰り、東方から眺めると、草原の向こうの郭の上に城壁と矢倉があり、見張りの城兵が私の方をしっかり見張っているようにみえた。
また元の道に戻って、10数分歩くと、「東海大学前」駅にたどり着く。この駅は昔「大根駅」という駅名だったはずだ。
以上、3時間半の行程。2001年5月5日。
真田城メモ
12世紀末、岡崎城の岡崎四郎義実の嫡男、余一義忠の居城となる。
1180 義忠、頼朝に味方し、石橋山の合戦で討死。
1495 北条早雲に追われた大森藤頼が、真田城に立て篭もり、3年間戦った(と言われている?)。