石垣山城
石垣山城案内図
小田原観光には「小田原宿観光回遊バス」が便利である。 何しろ、100円で1日中乗り放題である。
バスは、毎時00分と30分に小田原駅前を出発し、市内の名所を経由して50分ほどで元に戻る。観光客は、自分の目的地でバスを降り、30分か1時間後にまた同じ所で乗ればいい。 1日のうちに何箇所かで遊べる。
お勧めのコースは、
松永記念館→石垣山一夜城→小田原漁港(食事がうまい)→小田原文学館→小田原城
などである。バスにはボランティアの方の案内があり、これがまた渋くていい。
本丸
二の丸
天守台
西曲輪
さて、そのバスに20分ほどで石垣山一夜城の入り口に来る。
内部はきれいに公園化されている。最も広い二の丸(馬屋曲輪)は100メートル四方もあり、芝生がいい。
ここで弁当を食べ、芝生の上で大の字になって昼寝をすると気持ちいいだろうが、あいにく今日は弁当を持ってくるのを忘れた。
大手道
南曲輪の石垣
石垣山城の名にふさわしく、石が多い。
井戸曲輪などは石垣だらけであるが、その他にも見どころの石が多い。
本丸東側の展望台からみる小田原城、相模湾
円内が小田原城天守閣
秀吉はその日、石垣山城に伺候した家康をつれて、城内を歩いた。
「徳川殿、ともに敵情をみよう」というのである。
城の北東の櫓あたり、石垣のはしまで進み出て、秀吉は下を見た。
「あははは、北条方も負けずに市を営みおるわ」といった。
・・・
「さてさて、小便をしよう。どうじゃ徳川殿、おなじするなら二人いっしょにやろう」
「はっ」
家康もやむを得ず前をまくった。放尿しようとすると、秀吉は、待った待ったととめて、「敵方にひっかけてやれ」と二人で石垣のはしへ立ち、小田原城の方角にむかって放尿しはじめた。
「どうだ、この城と北条領、攻めとれば即刻そなたにつかわそう」 家康の関東入りはこのときにきまった。
(司馬遼太郎、「功名が辻」)
石垣山城メモ
天正18年4月5日、豊臣秀吉、湯本早雲寺に入り、石垣山に築城を開始。
80日後の、6月24日には完成していたようである。
10日後の7月5日、北条氏直が降伏し、城の役割を終える。
小田原城
銅門
常盤木門
再び同じバスに乗り、20分ほどで小田原城藤棚駐車場に着く。
現在残る小田原城は近世の城を復元したものである。
銅門や常盤木門は、堀や木々と調和し、美しい。
北条氏時代の痕跡は見当たらない。
小田原城メモ
14世紀末に土肥氏が築城したといわれている。土肥氏は、上杉禅定の乱に加担したため小田原を追われる。
応永24(1417)、大森氏が城主となる。
明応4(1495)、伊勢新九郎(北条早雲)が大森氏を追い、城主となる。
永禄4(1561)、上杉謙信が来寇するも退却。
永禄12(1569)、今度は武田信玄が来寇したが、これも退却。その後、北条氏康が城を大改修
天正18(1590)、豊臣秀吉が攻め、北条氏直は降伏。徳川家康の家臣、大久保忠隣が6.5万石の大名として入城。
寛永9(1632)、稲葉氏が8.5万石の大名として入城。その後、11.3万石で明治維新を迎える。
2005年11月5日