小 谷 城
春日山城、月山富田城、観音寺城、小谷城、七尾城の五つを「日本五大山城」と言うらしい。 春日山城の上杉氏以外は、すべて戦国末期までに城主が滅亡している。 今日はこのうちの一つの「小谷城」を訪問した。
大阪に住む兄が小谷城を案内してくれた。
米原駅で落ち合って、車で約30分。 小谷山のふもとに着く。
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金吾丸
| 黒金門
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追手道(王手道)から登り始める。 さほど急勾配ではないが、しかし夏の城山である、汗がいっぱい出る。
約1.5キロほどは、緩やかな一本道である。 途中に「出丸」、「金吾丸」などの削平地はあるが、お城としての仕掛けは殆ど見られない。
「お茶屋」と名づけられた曲輪からは、連続した曲輪群が続く。「御馬屋敷」、「桜馬場」、「大広間」そして「本丸」である。
大広間への虎口は「黒金門」と呼ばれ、この城の中では最大の虎口、であるはずだが、特に枡形があるわけではなく、道筋は直線的で、防御装置というよりはお屋敷の玄関口といった風情である。
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大広間
| 本丸下石垣
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大広間は、名前だけあって広い。 木々を取り払えば、小学校の運動場くらいありそうである。
木陰は涼しく、城を横切る風が心地よい。 ”松風さわぐ・・・”ではないが、木立を騒がす風の音は、古城によく似合う。
次の本丸下に石垣が残っている。 基本的には野面積であるが、角のところだけは算木積のようにも見える。
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本丸
| 案内板
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本丸は40メートルほどのほぼ円形である。 周囲には土塁があったのであろうが、定かではない。
この城跡には要所要所に復元想像図の案内図があり、往時の姿が想像できて楽しい。
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虎御前山(番所から)
| 竹生島と山本山(桜馬場から)
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山城の随所から下界が眺められる。
周辺の山々、豊かな平地、そして琵琶湖が美しい。
しかし戦国の時代、この城を織田軍が取り囲み、すぐ目の前の虎御前山には信長の本陣城が築かれた。 また山本山城の武将は織田方に寝返った。 見渡す限り敵軍の旗印が埋め尽くしているのを見た城兵たちはどのように感じていたか、想像するだけで身震いがする。
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大堀切
| 京極丸の虎口
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本丸の曲輪群を過ぎると、「大堀切」がある。 本丸群とその北の郭群との間の堀切である。 通常の堀切と異なり、幅が20メートルくらいもある。 この城の成立方法にも関係がありそうである。
この後、「中の丸」、「京極丸」、「小丸」、「山王丸」などの曲輪群が続く。 京極丸の虎口も、直線的でシンプルである。
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山王丸東側の大石垣
| 月初丸の堀切
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山王丸の東側には大きな石垣がある。
また、北方向への道の最北端に「月初丸」という独立した曲輪があり、その北側に続く道に二条の堀切がある。 大堀切以外にはこの城唯一の堀切のようである。
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清水谷
| 竪堀
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さらに少し山登りして「大嶽(おおづく)」経由で帰る選択肢もあったが、少し疲れた。 「清水谷(きよみずだに)」を降りる。 谷とは言っても、水は殆ど流れていない。 谷は殆ど直線状で約2キロ。 谷の両側には数か所屋敷跡がある。
地図で見ると郭群から下の清水谷に向かって幾条かの竪堀があるが、その一つがはっきりと見れるところがある。 経年変化のせいか、屈曲している。
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大嶽(左)
| 姉川、向こうに横山城
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ふもとまでおりて振り返ると、左に大嶽、右奥に小谷城が望める。 登城からおよそ4時間の散策であった。
米原駅までの途中に「姉川古戦場跡」がある。 向こうに横山城の山並みが見える。
【小谷城メモ】 〜 織田信長の視点からみた小谷城
永禄10年(1567) 妹のお市を、浅井長政に嫁がせる。
元亀元年(1570)
4月27日 朝倉を攻めの途中に、突然浅井軍が寝返る。 急遽戦線離脱して京に戻る。
6月28日、姉川の戦い。 この直後に横山城を降す。
12月14日、本願寺との争いが膠着し、いったん浅井朝倉と和睦。
元亀3年(1572)
7月19日、再び浅井を攻め始める。
8月、虎御前山の砦を築く。
天正元年(1573)
8月13日〜20日、木之本に陣していた援軍の朝倉氏を攻め、そのまま越前を攻略する。朝倉義景は自刃。
8月28日〜9月1日、小谷城を本格的に攻め、浅井長政は自刃。
【参考文献】
白川輝昌、「近江の国『小谷城と大嶽・出郭群』探訪」、平成25
2013年7月1日