上州新田荘遺跡
元弘3年(1333)、鎌倉幕府は楠木正成らの叛乱に多額の経費を使い、近国の荘園に臨時の天役を命じました。新田荘世良田にも銭6万貫文を収めるよう下知がありました。新田荘からとれる米の数年分にもなる金額です。激高した新田義貞は、役人の首を切ります。 そして、生品神社の御前にて、鎌倉幕府打倒の旗を挙げました。
■さらばやがて事の漏れ聞へぬ前に打立とて、同五月八日の卯刻に、生品明神の御前にて旗を挙、綸旨を披て三度是を拝し、笠懸野へ打出らる。相随う人々、氏族には大館次郎宗氏、子息孫次郎幸氏、二男弥次郎氏明、三男彦二郎氏兼、堀口三郎貞満、舎弟四郎行義、岩松三郎経家、里見五郎義胤、脇屋次郎義助、江田三郎光義、桃井次郎尚義、是等を宗徒の兵として、百五十騎には過ぎざりけり。[太平記 巻第十]
新田一族の名字に、大館、堀口、岩松、脇屋、江田など、現在の地名にも見られます。
その後義貞のもとには、越後の一族をはじめ、関東の武者が多く駆けつけました。 太平記では60万7千騎と記しています。 ついに5月22日、鎌倉幕府を滅ぼすことに成功しました。
国土地理院の2万5千分の1の地図「上野境(こうずけさかい)」には、『新田荘遺跡』と記されたところが何箇所もあります。 今日はそのうちの「反町館」と「江田城」を訪れました。
源義家┬○─○─頼朝
└○┬[新田]○┬[里見]
│ ├○─○─○┬○─○─○┬義貞
│ │ │ └[脇屋]義助
│ │ ├[大館]○─宗氏─氏朝
│ │ ├[堀口]○─○─貞満
│ │ └[由良]
│ └[徳川]
└[足利]○─○─○─○─○─○─○─尊氏
反 町 館
東武伊勢崎線・木崎駅に着いたのは10時半ころであった。 ここから真北に歩く。道の両側は住宅街、そのうち畑、さらに工場が多くなる。
3キロほど歩くと道の左側に大きな堀に囲まれた「照明寺」がある。「称妙寺」とも「反町薬師」ともいうらしい。
新田義貞が館として築き、義貞が各地で転戦している間は、一族の大館氏明や子の新田義興などが在城したらしい。また、天正12年には、北条氏邦が金山城攻城のときに本陣としたともいわれている。
周囲は水堀で囲まれている。 ところどころ道路で切断されているが、基本的には東西南北の四方にある。 広いところでは、30メートルくらいありそうである。
水堀の周囲は道路を隔てて住宅街である。 当然水堀はコンクリート舗装である。
水堀に面したところに藤棚があり、その下で弁当を食べる。
境内の入り口周辺には、小高い土塁が残されている。 きれいに手入れされており、タンポポが可愛い。 中世の土塁もこの位置にあったのであろうが、現在ではお寺の飾りの一部になっている。 あまりきれい過ぎて、「城跡」とは感じられない。
境内の裏手には、ごく少しではあるが、当時の土塁または櫓台跡らしきものが残る。 現代の寺の中に、わずかながら残っている中世の痕跡である。
江 田 城
反町館から西方2キロのところに江田城がある。
農地の間の車道を歩く。 車は多いが、歩いている人はいない。 麦が芽を吹いて、実が膨らみ始めている。
30分くらいで、道の右側に「江田館跡」の案内板がある。 ここが本丸の虎口である。
空堀の土橋(?)をわたると本丸である。 1辺が数十メートルのこぎれいな草原である。 中には、ただ草原ああるだけで何もない。 保存の名のもとに破壊が行なわれている城跡が多い中、見事に保存されていることに感心する。
何もない空間を眺めていると、中世の館やその中の住人たちの動きが彷彿としてくる。
本丸は単純な矩形ではなく、東西の二箇所に「折れ」がある。 周囲はすべて土塁と空堀がめぐらされている。 これだけ、ほぼ完全な形で残されている城跡も珍しい。
土塁と空堀が、折れ曲がったところを見ていると、城の設計者の思いが伝わってくる。
二の丸の西側は田であるが、小さな川もあり、中世はこのあたりは湿地帯が城を守っていたのではないかと想像する。
とすると、西側から眺める城の姿も頼もしくみえる。
解説書によると、本丸の北東側には、「黒沢屋敷」、「毛呂屋敷」、「柿沼屋敷」などの屋敷郡がある。 現在でも広いお屋敷である。 そのうちの一つ、毛呂屋敷の北側に、畑と接するあたりに土塁と空堀が続いている。 藪のため、定かではないが、直線状に100メートルくらいはありそうである。
城の南側には道路を隔てて「江田」さんのお屋敷がある。新田氏の一族の江田氏の末裔だろうか。
江田城から真南3キロのところのに世良田の「新田城」に向かう、今度は農道をまっすぐ南に進む。
世良田駅近くまで来たところで、今朝から歩きづめのため断念し、駅に向かう。
14時38分発の電車に乗る。
2005年5月4日