三好氏の城


1560年ころの三好氏
 三好氏メモ
  天文 元年(1532) 細川晴元、三好元長を自害させる。三好氏は一時衰退。
  天文 8年(1539) 三好長慶、畿内に進出し、摂津越水城を居城とする。
  天文19年(1550) 足利義輝を近江に追う。
  天文22年(1553) 長慶芥川山城に移る。
  このころ、三好長慶、弟の三好義賢(阿波)、十河一存(讃岐)、安宅冬康(淡路)らと協力して近畿・四国に勢力を拡げる。
  永禄 3年(1560) 長慶、居城を飯盛山城に移す。
  永禄 7年(1564) 三好長慶41歳にて死。弟や嫡男も先立っていたため、甥の義継が跡を継ぐ。 後見役の三好長逸、三好政康、岩成友通の三好三人衆が活躍。
  永禄 8年(1565) 三好義継・松永久秀、将軍義輝を殺す。
  永禄11年(1568) 織田信長、足利義昭と奉じて入京。 三好氏の勢力が衰える。
  天正 元年(1573) 義継、足利義昭とともに織田信長と戦うが、敗れて河内若江城で自刃。
  元和 元年(1615) 大坂夏の陣に三人衆の一人の三好長逸が参加し、真田十勇士の三好青海入道のモデルになったとされる。

  源頼義─4代略─小笠原長清─8代略─三好義長─❶長之┬❷之長┬長秀┬❸元長┬【畿内】❹長慶┬義興
         (阿波国三好・            │   │  │   │       └❺義継(一存実子)
          美馬郡守護)            │   │  │   ├【阿波】@義賢─❻A長治
                            │   │  │   ├【淡路】安宅冬康
                            │   │  │   └【讃岐】十河一存─❼B存保(義賢実子)
                            │   │  └康長(秀次の養父)─康俊【阿波岩倉】
                            │   └長則─長逸㊂
                            └勝時─政長─政康㊂
    ❶❷❸・・・三好家
    @AB・・・阿波三好家
    ㊂・・・三好三人衆 (他の一人は岩成友通)
  大和・信貴山城   


山麓の朝護孫子寺

  信貴山城は、山頂の本郭を中心に、たこの足のように四方に郭の列が連なっている大きな山城である。
  甥の結婚式に出席した翌日、城好きの兄がこの城へ連れて行ってくれた。

  麓の「朝護孫子寺」から城の本郭のある山頂までは、20分ほどの山登りである。
  聖徳太子の時代からの信仰の地でもあり、ハイキングコースでもあり、しかも好天の休日とあって、多くの老若男女が訪れている。
雌嶽頂上の郭
松永屋敷(数段の郭が続く)

  この城の見所は郭の多さだろうか。とにかく、数は多い。詳細な地図で数えると4、50くらいありそうである。ただし、どの郭も破壊もされていないが、保存もされていない。一見すると、すべてヒノキの林である。
  また、個々の郭に際立った仕掛けは見あたらない。土塁や虎口も少なく、あってもシンプルである。


本郭より眺める雌嶽
西端の虎口
  天正5年(1577)7月、松永久秀は、石山本願寺を攻めていた織田軍の一武将として天王寺砦を守っていたが、突如この城に帰り、織田信長に対して謀反を起こした。
  西の毛利、北の上杉、大坂の本願寺、そして友人の荒木村重らが頼りだったが、彼らはなかなか動けない。
  まもなく織田信忠ら4万の軍勢が城を取り囲み、10日8日、総攻撃が始まった。その二日後、
  ■蜂の巣のように銃弾の穴のあいた天守閣の窓から白髪の老人は姿をあらわした。首にあの平蜘蛛の釜を鎖でしっかり縛りつけている。
  「久秀、平蜘蛛の釜と、地獄に参る」
  その言葉を言い終った瞬間、すざましい音をたてて窓も壁も粉々にふっ飛んだ。爆薬に火をつけさせたのである。   遠藤周作、『反逆』

松永屋敷の土塁
本郭北の郭の切岸

  この巨大さには感服。無骨で不器用な戦国武将の城、老将の無念の思いが篭った城、そんな印象がする。

  2010年3月20日

 信貴山城メモ
  中世、護良親王が鎌倉幕府への対抗拠点としてこの山を利用した。
  天文のころ、河内守護の畠山家の家臣、木沢長政が築城したが、天文11年(1542)三好氏などと争い敗死。
  永禄2年(1559)、三好長慶の家臣、松永久秀が改修して入城。
  天正5年(1577)、松永久秀が織田信長に背き、50日間の篭城の末落城。

  河内・飯盛山城   

西北より望む飯盛山城
  三好長慶が一時本拠を構えた「飯盛山城」を訪れる。
  案内人は、実兄である。兄は、この城にはたびたび訪れており、プロ級に詳しい。

山頂の本郭
楠正行像
  山頂には尾根伝いに5、6つの郭が連なっており、北から「御体塚丸」、「三本松丸」、「本郭」、「高櫓郭」、「千畳敷郭」などの名前がついている。

石垣(1)
石垣(2)
  この時代の城にしては珍しく、何箇所かに石垣がある。
  高さはせいぜい2メートル、長さも長いところで10メートルくらいのものだが、歩いていたらほんとにあちこちにある。決してきれいな石垣ではないが、戦国武者たちの心が伝わってくる。

西方の腰郭に通ずる土橋
主郭間のS字型土橋
  山頂の郭間も土橋でつながっているが、山麓につながる小さな郭間も土橋でつながれていることが目に付く。

南虎口
南丸の土塁
  城への上り道は10箇所ほどありそうである。
  それぞれの虎口には、さまざまな工夫がされているが、最南端の千畳敷郭に通ずる虎口の仕掛けが最もすばらしい。進路は屈曲し、その両側に、横矢係りの土塁が設けられている。

  2008年10月13日

 飯森山城メモ
  天文 8年(1539) 三好長慶、畿内に進出し、摂津越水城を居城とする。
  天文22年(1553) 長慶芥川山城に移る。
  永禄 3年(1560) 長慶、居城を飯盛山城に移す。
  永禄 6年(1563) 73人の武士が、この城でキリスト教に改宗する。(ルイス・フロイス「日本史」)。
  永禄 7年(1564) 三好長慶41歳にて死。弟や嫡男も先立っていたため、甥の義継が跡をつぐ。
  永禄 8年(1565) 三好義継・松永久秀、将軍義輝を殺す。
  天正 元年(1573) 義継、足利義昭とともに織田信長と戦うが、敗れて河内若江城で自刃。


  摂津・芥川山城   

大きな地図で見る

  今年も兄の案内で三好氏の居城、芥川山城を訪れる。
  城は、高槻市街の北5キロほどにある小高い山「三好山」に作られている。
  周りを田畑で囲まれた小高い山である。

  城域は東西に連なる。
  全体がいのししよけの柵で囲まれており、ところどころ、人の出入り口がある。出入り口を通るときは、扉のヒモをほどき、また結んでおく。幸いにもいのししには出会わなかったが、城域の大部分はいのししの生活圏のようである。
  
本丸(右側)
本丸からの眺め
  東西に連なるように、大きな郭が数箇所ある。
  本丸は西端の最も高いところにあり、もっとも広いようだ。手入れする人たちがいるのだろうか、ほどよく柴が刈られている。
  本丸からは南西に大阪平野が望める。
  
竪土塁
S字土橋
  この城の中で最も注目すべきなのは「竪土塁」である。山城に「竪堀」はつきものだが、「竪土塁」を見るのは初めてだ。
  東側の郭の武者走り(腰郭?)から真南にまっすぐのびている。高さは1メートルくらい、長さは20メートルくらいか?
  土塁の左右に顕著な差がないところを見ると、竪堀と同じ役割を果たしていたのであろう。
  東側の郭と中央部分の間は深く切り取られ、細いS字形の土橋で繋がれている。

大手口の石垣
東郭の虎口
  大手道は城の中央部の谷筋である。
  大手門があったとおぼしき所に、巨大な石垣がある。まるで砂防ダムのように大きく堂々としている。
  写真撮影のためには、立場が悪く、また暗くて、全体像が撮りにくいのが残念である。

  2009年10月16日

 芥川山城メモ  (城下の案内板より)
  永正17年(1520) この頃、原地区南の山塊に新城(芥川山城か)を築く。
  大永 3年(1523) 能勢氏主催の連歌の会が開かれる。
  天文 2年(1533) 細川晴元入城。天文5年まで滞在。
  天文10年(1541) この頃、芥川山城をめぐる攻防激化。奈佐原も兵火を受ける。晴元、しばしば滞在する。
  天文22年(1553) 三好長慶、芥川山城に入城。
  弘治 2年(1556) 芥川山城出火(『多聞院日記』)
  弘治 3年(1557) 長慶、里村紹巴らと連歌の会を開く。
  永禄 2年(1559) 郡家惣中宛の水論採決状を出す。
  永禄 3年(1560) 長慶、飯森城に移る。三好義興が城主になる。
  永禄 6年(1563) 義興没。
  永禄11年(1568) 織田信長の入城。和田惟政が城主に。


  讃岐・引田城    ⇒「国土地理院地図」

  引田城は、讃岐の東端、瀬戸内海に着き出した小さな半島をそのまま城に利用したものである。
  半島はほぼ円形で、直径数百メートル、最大高さは86メートルである。
  麓の登山口から少し険しい道を10分余り上ると、道はなだらかになり、本丸と書かれた石垣に出会う。
  石垣はそう大きくない。 本丸の角を申し訳程度に装飾しているだけである。



  そのあたりから、いくつかの郭が続いている。 山の尾根を利用したもので、木立に覆われた快い散策路になっている。
  しかし、400年以上の歴史に埋没したのか、土塁などの目立った遺構はなく、天守台と書かれたあたりにもそれらしき遺構はない。



  この城跡の最大の見所は、北二の丸の高さ5〜6メートル、長さ数十メートルの石垣である。
  間詰め石が丁寧に詰められており、穴太衆の手になるものだとの説もある。
  眼下の城下から眺められる位置にあり、仙石氏か生駒氏が入国後、防御のためというより、城下を威圧するために作られたのではないかと想像する。



  城からは眼下に引田港が見える。
  春・秋の散策路としては素晴らしい。
  しかし、石垣以外には、土塁、堀切、土橋、横堀、竪堀、虎口などの防御施設が殆ど見られないのが少し物足りない。

  2018年10月17日

 引田城メモ
  応仁年間 寒川氏の所領となる。
  永正年間 寒川氏の家臣四宮右近が引田城の城主となり、しばしば阿波の三好氏と交戦する。
  元亀3年(1572) 三好長治この地を制し、矢野駿河守が入城する。
  天正5年(1577) 矢野駿河守が阿波に戻り、城主不在となる。
  天正10年(1582) 十河存保、中富川の合戦で長宗我部元親に敗れ、讃岐虎丸城に退く。この後も、存保と元親との戦いは続く。
  天正11年(1583) 十河存保の要請に応え、羽柴秀吉が仙石秀久を派遣。 長宗我部勢と「引田合戦」をするが、敗退。
  天正13年(1585) 秀吉の四国征伐後、讃岐は仙石秀久(?万石)と、十河存保(2万石)の領地となる。
  天正14年(1586) 秀吉の九州征伐時、十河存保は戦死、仙石秀久は失態で除封。
  天正15年(1587) 生駒親正が讃岐一国(16.7万石)を与えられ、引田城に入る。 後高松に移り、西讃岐の丸亀城、東讃岐の引田城を支城とする。
  元和元年(1615) 一国一城の令により、廃城になったと考えられる。