三浦半島の城跡めぐり
|
城郭史学会のバスツアーである。
|
浦 賀 城
|
|
本郭
| 対岸から眺めた浦賀城。中央のへこみが大堀切
|
最初に訪れたのは浦賀城。
麓の叶神社からの石段を登ると、本郭の広場に出る。
裏手には、巾の広い土塁が回っている。
また、竪堀、腰郭、大堀切らしき遺構も多く残されている。
浦賀城メモ
1500年ころ、三浦道寸が築城した?
その後、後北条氏が、里見氏の攻撃に対抗するために整備した。
後北条氏の滅亡とともに廃城となる。
浦賀奉行所跡
次は浦賀奉行所跡。
現在ここは、浦賀造船所の社員の住宅になっている。 しかし、住んでいる人は少ないようで、無人の住宅も多いようだ。
一角に「浦賀奉行所跡」の看板があり、その下に当時のものと思われる石組がある。
また、玄関に通じる石橋は、現存丸亀城とここだけだそうである、
浦賀奉行所メモ
1720年、江戸湾内の経済活動の活発化に伴って、下田奉行が相模浦賀に移転したのが始まり。
江戸湾に入る船舶の監視・積荷の検査・相模や浦賀の民政裁判等を担当した。
文化年間になると、日本へ外国船が来航するようになり、浦賀奉行の職務に江戸湾の警備が加わることになった。
幕末期には外国との交渉の窓口となった。
燈 明 堂
次は、燈明堂。
周囲は散策の楽しめる公園になっている。
燈明堂メモ
1648年、江戸幕府が浦賀港入り口の岬に和式灯台である燈明堂を建設した。
当時は夜間に明かりがほとんどなかったこともあって、対岸の房総半島からも確認できたと言われている。
灯火や修復の費用は、浦賀港の干鰯問屋が負担していたそうだ。
明治2年(1869年)、日本初の洋式灯台である観音埼灯台が建設されたことによって、燈明堂はその使命を終え、明治5年(1872年)に廃止となった。
昭和63年(1988年)に横須賀市は燈明堂の復元に取り掛かり、平成元年(1989年)3月に復元工事は完成した。
三 崎 城
|
|
城の中心部の案内板(中学校の脇)
| 土塁跡
|
次は、最初に訪れたのは三崎城。
この城には9年前に一人で訪れている。 そのときと情景はほとんど変わらない。
三崎城メモ
16世紀初頭には、すでに三浦氏によって築城されていた。
1516年 新井城において三浦氏が滅亡したとき、この城は北条氏のものとなる。
その後、房総の里見氏に備えるため、北条水軍の根拠地となり、小田原開城時は、北条氏規が城主。
新 井 城
新井城も9年前と変わらない。
城域のほとんどは東大の地震研の敷地であり、出入口は厳しく閉ざされている。 前回来たときは、それほどでもなく、勝手に(こそっと)中に入らせてもらった。 今回はダメ。
新井城メモ
1494年 三浦義同、義父の時高を討つ。
1495年 北条早雲、大森藤頼の小田原城を奪う。大森藤頼の娘が三浦義同の母。
1512年 北条早雲、義同の守る岡崎城を攻める。義同は厨子の住吉城に逃れ、その後新井城に篭る。
1516年 新井城において三浦氏滅亡。
この後、北条氏の持ち城となるが、その後の状況不明。
2015年2月28日