箕 輪 城   



案内図
  8月というのに、この数日涼しい日が続く。 天気はさほどよくないが、何とか夕方までもちそうだ。 昨年より計画していた、箕輪城に行くことにする。
  朝6時に起きて弁当を作る。 定番のおにぎりである。 少し多めに作っていたら、出社前の娘が起きてきて、これ幸いと食べて行った。

  JR高崎駅で伊香保行きの群馬バスに乗る。 最前列の席に運転手さんと同じ制服を着た人がいたので、どこで降りたらいいか、帰りはどこで乗ったらいいかなどを聞く。 この方は、箕輪城の長野氏のお寺があそこにあるんですよ、などといろいろ話してくれる。
  箕郷に近づいた頃、「下田邸に行かれるならここですよ」と、教えてくれた。

  ■黄昏の城の跡は人影なく哀しい。夕陽が雑木林の先端にかがやき、烏がなき、その昔、矢音、刀の響きの入り乱れた二の丸も空濠も、今は静まりかえって桑の葉がのびる畠と変わっている。 ・・・  遠藤周作、「埋もれた古城」



大掘切
  下田邸は外から眺めるだけにして、お城の方を目指して街中を歩く。 道の両側に古い門構えと塀のある旧家が並んでいる。
  小学校を越えたところから山道になり、観音堂を過ぎると、城址が鮮明になる。
  至る所に城の案内図やコースの標識があり、道に迷わない。 それでいて多すぎもせず、環境は程よく守られている。
  「木俣」という名の大きな曲輪をすぎると、「郭馬出」と「二の丸」との間に「大掘切」があり、細い@土橋で繋がれている。 堀切は、巾50メートル、深さ20メートルはあろうか。 自然の地形を利用した堀ではなく、人力で掘った堀のようである。



調査中の二の丸
  掘切の土橋を渡ったところが「二の丸」である。 丁度A遺跡調査の最中で、十数人の人が作業をしている。 石組みの跡、柱穴の跡などがよく分かる。


堀底
  散策コースは、「三の丸」を経て、「本丸」西側のB掘底を歩くことになる。 巾が50メートルはあろうかと思われるくらい広い堀である。
  杉木立の中の心地よい散策路である。 もう少し天気がよければ木漏れ日が楽しいだろうにと想像する。
  しかしこの季節蚊が多く、カメラを構えている間にも手の甲に2匹の蚊が止まっている。


御前郭
  堀底の道から階段道を登ると、C「御前曲輪」と「本丸」の二つの曲輪が並んでいる。 二つの曲輪は、さほど深くない堀で隔てられている。 夏草が刈り取られたばかりのようで、歩きよい。


本丸の石碑
  「本丸」の東側には土塁がめぐらされており、土塁の下部には石垣が残っている。
  本丸にはどこの城にもあるが、D石碑がある。 ただし、この城址の中には碑の類は極めて少なく、好感が持てる。
  南側の二の丸に続く虎口は、馬出しを伴っているが、さほど複雑な形状ではない。
  二の丸東部が駐車場になっているが、城全体の景観を損なわずに、必要最低限の工事にとどまっているところはすばらしい。 駐車場の隅のベンチで弁当を食べることにする。


三の丸の下の石垣
  ふたたび二の丸の調査現場を迂回して、三の丸経由で、今度は西の方へ降りていく。
  「三の丸」や、その下の「鍛冶曲輪」にはE石垣が残っているところが多い。
  元来なだらかな傾斜だったところに削平地を設けて曲輪にしたものらしい。
  中世風の石の積み方がきれいである。


白川口
  下に降りると「虎韜門(ことうもん)」の跡があり、さらに道路を隔てて、F「白川口埋門」の跡がある。 下の河川敷方向へのトンネル状の門があったらしい。
  さすがに現在ではトンネル状にはなっていないが、降りてみると田んぼが並んでいる。 そして、田んぼの向こうに「榛名白川」という名の清流がある。
 (標識は少し離れたところにあります。画像は合成です)



稲荷郭の先端の台形
  もう一度本丸西部の堀底のコースを経由し、城の外側を北側から東側へ巡り、搦め手口の方へ進む。
  途中、緑の草と蔓に被われた台形上の土の塊がある。 地図で確かめるとG「稲荷曲輪」の突端らしい。 正に、これが中世の城の跡である。
  ■今日、この搦手あたりには空濠のあとがはっきり見える。雑草と畠とに埋もれたこのあたりは、むかしはもっと濠もふかく、崖も絶壁に造ってあったろう。城兵たちは木戸を開いて出撃したり、濠を埋めた敵兵に岩石、木材を投げ落として防いだという。
  城を後にし、「城山」という名のバス停で高崎行きのバスを待つ。
  やってきたバスで、何と今朝道を尋ねたバス会社の人にまたお会いした。

  東京に着いたら小雨になっていた。 夏休み最後のいい思い出である。



 2002年8月23日

 箕輪城メモ

   15世紀末、上杉氏の家臣、長野業尚(なりひさ)が浜川より移って築城。その後、信業、業政、業盛と続く。特に長野業政は豪勇で有名
   永禄9年(1566)、武田信玄2万の軍勢で、箕輪城を攻める。長野業盛は1500の兵で3日間戦ったが、自刃。
   その後、信玄の家臣内藤昌豊が城代となるが長篠の戦で討死、子の昌月が後を継ぐ。
   天正10年(1582)、武田氏が滅亡し、織田信長の家臣滝川一益が城主となる。
   同年、本能寺の変により、小田原北条氏の支配するところとなる。
   天正18年(1590)、徳川家康の家臣、井伊直政が12万石の城主となり入城。箕輪城はこのころ大改装されたものと思われる。
   慶長3年(1598)、井伊直政は高崎城に移り、箕輪城は廃城となる。

   戦国末期、わずか30年の間に、上杉氏(長野氏)→武田氏(内藤氏)→織田氏(滝川氏)→北条氏→徳川氏(井伊氏)と、5家の有名戦国大名の支配下となった珍しい城である。