皆 川 城   




  日本城郭史学会が主催する「皆川城見学会」に参加した。
  東部鉄道栃木駅に定刻12時30分に集まったのは、老若男女40名近い。
  本日の案内役は、少年時代をこの地で育った笹崎さんである。
  まずはタクシーに分譲し、駅から6キロほど北東にある歴代皆川氏の菩提寺「金剛寺」に向かう。
  寒いことを予想していたが、ぽかぽか暖かい。

全景
居館跡から眺める城山



  金剛寺でご住職さんから、皆川氏の歴史についてのお話を聞いたあと、城に向かう。
  城山は東西二つにわかれている。   西側のやや低いところは市有地で、きれいに整地されて、市民の公園になっている。
  一方東側が本丸にあたる部分で、私有地であり、木々が生い茂っている。

  麓には広い居館跡がある。 この居館跡にはかつて中学校があり、現在は公民館になっている。 居館跡の西側には今でも土塁と、その外側に水堀が残されている。南側にも土塁があったらしいが、中学校建設のときに取り払われたとのこと。



  この城には見所が多い。

  まず、居館跡から登ってすぐ目の前に、大手口の虎口の食い違いがある。 土だけの塊で、敵の侵入を防ごうとしている。

  この城は山城にしては竪堀が少ないが、西側に一本大きな竪堀がある。 なんとフィールドアスレチックの橋がかけられている。 通常竪堀は木々の覆われて写真にとれないのだが、そのせいで写真写りがいい。 城の破壊には賛成できないが、まあよしとしよう

  次に、城山全体を外堀が一周して取り囲んでおり、その多くが残されている。 居館跡の周りにあった水堀がそのまま城全体を取り囲んでいる。

  最後に、帯曲輪の多さである。 頂上の本丸と西の曲輪を中心に、城山全体に棚田のような大小の帯曲輪が連続している。 そのためこの城は「法螺貝城」と異名をとっている。

西の曲輪
本丸より



  城山西側の最上部には、広い曲輪がある。 野球ができそうなくらい広く平坦である。

  西の曲輪からさらに少し登ると本丸である。 本丸には木々が茂り、全体が見通せない。 しかし、東の端からは栃木市内を見下ろせる。

  帰りは、皆川宗員が鎌倉初期に居館を構えたとの伝承のある白山台、皆川城の出城といわれる東宮神社など、皆川氏関連の遺跡を経由する。
  東宮神社より、再びタクシーに分乗して栃木駅に戻る。 16時半に解散した。 もうすでに薄暗くなっている。
  
 皆川城メモ

  永享のころ(1430年ころ)、皆川秀宗が築城
  大永3(1523)、皆川宗成、川原田で宇都宮忠綱と戦い、戦死。
  天正12(1584)、皆川広照、北条氏政に攻められ和睦。
  天正18(1590)、豊臣秀吉軍(上杉景勝、浅野長政ら)に攻められ落城。
         皆川広照は1.3万石を安堵される(後に3.5万石に増封)。

 藤原秀郷─(7代略)┬小山朝政
           ├長沼宗政─(9代略)─皆川秀宗─(4代略)─広照
           └結城朝光

 2005年11月26日