吉 見 百 穴


  池袋より東武東上線の急行に乗って約1時間、「東松山」駅に着く。12時。駅前広場に朱塗りの鳥居がある。鳥居をくぐってまっすぐ東へ向かう。
  20分ほど歩くと市野川にかかる橋に出る。真正面にこんもりとした小山がある。これが目指す松山城址だ。


吉見百穴   橋を渡ると、道は城山にぶつかり左右に別れる。右側を進めば城山への入口があると思われるが、まずは左側の古墳時代の遺跡「吉見百穴」に進む。150円の入場券を払って観覧場にはいる。小高い丘の斜面いっぱいに横穴の墓跡が並ぶ異様な風景だ。穴は200個以上あるらしい。丘の下には、戦時中の軍需工場のための洞窟がある。

  みやげ物と食堂が一緒になった店が二つある。その中のひとつの店に入り、ラーメンを注文する。若い店員に「松山城へはどこから登ればいいのですか?」と聞いたら、「車道をずーっと行くと短大があり、そこを超えたところに登り口がありますが、あまり行く人もいないので、藪を掻き分け掻き分けしながら行くところですよ。」と教えてくれた。


道路わきの入り口

  武 州 松 山 城   


  左手に城山を見ながら車道を進んでいくと、道脇の小さな標識が目についた。「松山城址入口」。店員の教えてくれた所ではないが、ここから登ることにする。

本丸への登り口   谷筋の細い道を少し登ると、左右に墓場がある。上から人が降りてくる。道はそのまま堀切につながり、少し登ったところで、左手に10段くらいの段がある。


本丸内部   登りきるとそこが本丸であった。周囲には松、椎などのあまり太くない木が茂り、内部は背の高い草と潅木で覆われている。全く整備されていない、正に"荒城"だ。とても"本丸公園のベンチで弁当を食べる"といった雰囲気ではない。碑、案内板、それに破れ果てた小屋が二つある。

  こんなところだが、それでも一人、二人、歩いている人を見かける。見かけてもすぐ木立の中に消えてしまう。人の歩いた細い道がわずかに残っており、道案内の重要な役割を果たしている。


角度のある堀切り   本丸は一辺が20メートルくらいの不等辺五角形で、一箇所だけ突起した部分がある。そこに「松山城址」の大きな石碑がある。この突起部分を取り囲むように二の丸が廻っている。本丸と二の丸の間は、幅が10メートル以上、高さ4〜5メートルの空堀になっており、底は丈高く茂った草むらで、切り倒された木々の墓場にもなっている。堀の角度が急な所も残っており、400年前はより険しく、より深い姿だったろうと想像できる。

  本丸から二の丸へは、堀の底を伝わる細い道跡でつながれている。二の丸は本丸の北側をコの字型に取り囲むような形をしている。不規則な多角形をしているが、ひとめぐりしてみたところ、内部の様子は本丸とあまり変わらない。 

  二の丸と、その北側の郭の間にも、幅10メートル以上の堀がある。二の丸から堀底の向けて2〜30段の急勾配の石段がある。石段に積もった枯れ葉に足が滑りそうで、慎重に降りる。こんな人のいないところで足をくじいたりしたらたいへんだ。

  次の郭はこれまでの郭とは違い、一層動きがとりにくくなる。木はより密集し、上からは蔦かずら、下からは背の高い笹、そして時々倒木が行く手をさえぎる。視界は全くなくなり、足元の道跡もなくなる。さほど広くはないはずなのに、方向がわからなくなる。掻き分け掻き分けすすむと「春日郭」の標識がある。そのまま進んでいると、堀にぶつかり行き止まりになる。自分がどこにいるのかわからなくなった。元の標識にもどり、少し方向を変えて進む。それでもまた行き止まり。


出てきたところ   思い切って、いったん二の丸に引き返し、位置をよく確認したうえで、再度「春日郭」の標識のところまで来る。すぐ右に下に降る細い道を発見。道を進むと、また竹やぶ。

  もうここまで来たら前に進むしかない。両手でやぶを掻き分けて進むと、やっと人家の屋根が見えた。

  人家の裏手の道に出たところで、今出てきたところを振り返ってみたが、何の標識もなく、入口らしき姿が全くない。竹やぶが入口を見事に隠している。とてもこんなところから登っていく気にはなれない。食堂の店員の教えてくれた登り口とはここだったのか。

  外界に出ると、上着に蜘蛛の巣と枯れ葉がいっぱいついているのに気が付く。天気がいいのと、あたりに人影が少ないのを幸いに、道端で上着を脱ぎほこりを払う。


城山   学研の出した「戦国の城−関東編」には、この城の往時の想像図が表紙にもなっている。この絵が頭のなかに焼きついていただけに、雑木・潅木・雑草・竹薮の城跡にはびっくりした。しかし、観光目的の模擬天主などを作って景観をぶち壊す城跡が見られる中、ひとつの考え方として賛成したい。

  農家の集落と短大の脇を通って、市野川の川岸に出る。木の橋を見つけたので、その橋を渡り、土手を歩きながら、すすきと城址の山を眺める。


    二万五千分の一の地図を見ていて気が付いた。この松山城は市野川にたんこぶの様に突き出た小山に築かれたものだが、東松山市と吉見町の境界線は市野川と正しく一致しているわけではない。松山城のある吉見町側がたんこぶよりさらに大きくせり出し、少し上流でその分だけ逆に退いている。境界線が昔の川筋だとすれば、川と城の位置関係は現在と多少異なっていたことになる。


スリデーマーチ   今日はスリデーマーチの最終日だそうだ。東松山駅はその終点になる。駅に向かう道には、何千人もの人が、グループごとの旗とユニフォームで、ウオーキングを楽しんでいる。

  池袋行きの急行がすぐ来た。3時発。しばらく乗っているうちに寝てしまった。

  2000年11月5日

  
 松山城メモ

  古くは新田義貞の要害に始まると伝えられる。
  1400頃 上田氏が築城。
  1537  北条氏綱、扇谷上杉朝定の篭る松山城を攻撃するが諦める。このときの城主は上田政弘(朝直)。
  1546  上杉朝定、河越合戦で討死。上田朝直は安戸に落ち、北条氏松山衆の拠点となる。
        この後、上田朝直が一時奪回するが、北条氏が再度攻めたとき降伏し、北条氏の家臣となる。
  1561  長尾景虎が松山城を攻め、上田朝直は再度安戸に退く。
        代わって上杉憲勝と太田資正が城主となる。
  1563  北条氏康・武田信玄連合軍が攻め,上杉憲勝降伏。上田朝直が再々度城主となる。
        この後、上田長則、憲直、憲定が代々城主となり、城下町が栄える。
  1590  豊臣秀吉軍(前田利家・上杉景勝ら)、2500人の篭る松山城を攻め落とす。
  1590  徳川家康の家臣、松平家広1万石の城主となる。後2.5万石に加増。
  1601  家広の嗣子忠頼、浜松5万石に転封となり、松山城は廃城となる。