熊 本 城
ホテルよりの眺め
日本の三大名城にはいろんな説がある。(Wikipediaによる)
説1 江戸城、名古屋城、大坂城 − 城郭の規模
説2 名古屋城、大阪城、熊本城 − 設計者
説3 名古屋城、姫路城、熊本城 − 天守閣
説4 大坂城、熊本城、江戸城 − 日本名城百選
説5 松本城、姫路城、熊本城 − 理由不明
5つ中4つに顔を出しているのが熊本城である。
泊まったホテルからは、なんと熊本城の天守と本丸御殿がみえる。
長塀と坪井川
飯田丸五階櫓と備前堀
平成28年、熊本地震直後の飯田丸五階櫓
(画像:熊本城公式Facebookより)
繁華街から坪井川を隔てた向こう側一帯に熊本城の石垣群と櫓群が待ち構えてる。
長塀は長さおよそ242メートルあり、現存する城郭の中では、国内最長。
たしかに美しいのだが、本丸南側を守る城壁としては、横矢掛もなく、際立った櫓もなく、防御としては不自然。
かつての坪井川は、もっと深く険しいものだったのだろうと推察する。
飯田丸五階櫓は、平成17年の復元。普通のお城なら、これでも立派な天守閣だろう。三段の石垣が美しい。
宇土櫓と渡り櫓
宇土櫓の武者返し石垣
備前堀沿いにやや上り坂を北上すると、宇土櫓がある。
白と黒の安定感のある創建当時からの櫓と、武者返しの石垣の高さと美しさは、日本の城郭の中で最高である。国宝級である。
石垣の高さは20メートルらしいが、もっと高く感じられる。
宇土櫓内部
宇土櫓より見た西出丸
宇土櫓は、外形と石垣もすばらしいが、内部もいい。
木造の旧家のような堅固でな造りである。急な階段を登るも心地いい。
大・小天守閣
御殿内の昭君の間
本丸へは、本丸御殿下の地下通路からしか行けない。
天守前の本丸広場には、平日にもかかわらず、観光旅行の一団や、修学旅行の一団や、子供たちの一団が多い。
天守は昭和35年に外観復元されたもので、内部はコンクリート造りの展示室になっている。
本丸御殿は平成20年に復元されたもの。
二様の石垣
東竹の丸から見た本丸御殿の裏側
本丸御殿の裏側も面白い。
「二様の石垣」は、加藤時代の石垣に細川氏が追加したもの。
加藤期の石垣は、「扇の勾配」と呼ばれる上にいくほど勾配が急になる。 積み方は乱積みで、隅の石もほぼ同じ大きさ。
それに対して細川期の石垣は、勾配が急になり、積み方は布積みで、隅は算木積み。
北十八間櫓と不開門
不開門わきの平櫓
2時間半の散策であった。
西出丸、奉行丸、竹の丸など、まだまだ見るべきところはいっぱいあったが、今回はこれにて終了。
土塁がないのは、石垣が多いせいだが、外枡形や馬出に相当するものが見られない。
【熊本城メモ】 (主にWikipediaを編集)
文明年間(1469-1487年)、肥後守護菊池氏の一族・出田秀信が千葉城を築いたのが始まり。
大永・享禄年間(1521ー1531年)、菊池氏は鹿子木親員に隈本城を築かせて入れる。
1550年(天文19年)、守護菊池義武が隈本城に入る。しかし、大友義鎮により追われ、以後は大友氏に協力した城親冬が居城とする。
1587年(天正15年)、豊臣秀吉の九州征伐に際し、薩摩の島津氏に属していた城久基は城を明け渡し筑後国に移る。
新たに佐々成政が隈本城にるが、失政のため、翌年切腹。
1588年(天正16年)、加藤清正が肥後北半国19万5000石の領主となり隈本城に入る。
1591年(天正19年)、加藤清正は、千葉城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に城郭を築きはじめる。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの行賞で清正は肥後一国52万石の領主となる。
1606年(慶長11年)、城を完成し、翌年「隈本」を「熊本」と改める。
1632年(寛永9年)、加藤忠広の改易により、豊前小倉城主だった細川忠利が肥後54万石の領主となり熊本城に入る。
細川忠利は、直ちに熊本城の修理を行う。本丸の増築など、現在見られる縄張りはこの修理の際完成したもの。
1643年(寛永20年)、阿部一族の乱。宮本武蔵「五輪の書」を著す。
1876年(明治9年)、神風連の乱のとき、反乱士族が城内を一時制圧。
1877年(明治10年)2月22日〜4月14日、西南戦争で西郷軍に包囲攻撃される。西郷軍の総攻撃2日前、2月19日原因不明の出火で大小天守などの建物を焼失。
熊本城は司令官谷干城の指揮の下、4000人の籠城で、西郷軍14000人の攻撃に耐え、撃退に成功。
1960年(昭和35年)、熊本国体開催と築城350年を期に、外観復元で大小天守と平櫓、塀などを再建。
2007年(平成19年)、築城400年に際して、本丸御殿などを復元。
2008年(平成20年)4月、本丸御殿一般公開。
2016年(平成28年)4月、熊本地震で大被害。
2011年10月12日