上野(こうずけ)の城めぐり


今回の城郭史学会のバスツアーは上州南部である。
関東管領の平井城などいくつかの古城を訪問する。

   平 井 城    地図


本丸虎口(内側から)
本丸裏手の内堀
  上州平井城は言わずと知れた関東管領山内上杉家の居城。
  城跡には、上杉氏の旗とそれらしき土塁が待ち構えている。
  そして、裏手には空堀の跡らしきものも。
  しかし、本丸とおぼしきところには豚小屋が立ち並び、周囲の空堀とおぼしきところは畑と化している。

  平井城メモ
永享10年(1438)、上杉憲実が鎌倉公方足利持氏と争ったとき、家臣の長尾忠房にこの城を築かせた。
応仁元年(1467)、上杉顕定が越後から入ってこの城を改修して関東管領府とする。
天文15年(1546)、上杉憲政が川越の合戦で北条氏康に敗れ、これ以降勢力を急激に失う。
天文20年(1551)、上杉憲政、平井城を捨て、越後の長尾景虎を頼る。
この城は北条氏のものとなるが、直後に長尾景虎が奪い返し、城を破却する。


 【山内上杉氏系図】 *は関東管領

           ┌─憲春* ┌E憲定*─F憲基*
           ├─能憲* ├─憲孝*     ┌H憲忠*
  B憲房─C憲顕*─┴D憲方*─┴─房方┬─G憲実*┼─□□─L憲房*─N憲政*==O輝虎(謙信)*
                     │     └I房顕*
                     └──清方*──房定─J顕定*

 【古河公方足利氏】

  ❶成氏─┬─❷政氏──❸高基─┬─❹晴氏──❺義氏
      └─K顕実*     └─M憲寛*

   吉 井 陣 屋   


吉井陣屋の表門
  吉井陣屋は、往時は広大なお屋敷だったのだろうが、その敷地はまったく変貌し、表門だけが寂しく残されている。

  吉井陣屋メモ

   宝暦8年(1758)、当時旗本だった松平(鷹司)信友が築く。
   明治4年、敷地建物が払い下げられる。

   小 幡 城    地図


小幡城内部
楽山園の庭園
城下山田家の食い違い郭
織田信雄の墓
  小幡城が有名なのは、織田信雄が居住していたからである。
  城跡としては公園のような土塁と空堀があるだけで、どちらかというと裏庭の庭園の方が名物のようである。

  小幡がもう一つ有名なのは、小さいながら城下町の風情を残していることである。
  味わいのある武家屋敷街があり、いくつかの屋敷では(個人の住宅ではあるが)内部をのぞくことができる。
  山田家の入口の食い違い郭も見ものの一つである。

  織田信雄メモ
永禄元年(1558)、織田信長の次男として生まれる。
天正3年(1575))、伊勢北畠具房の養子として家督を相続し、伊勢田丸城、後松ヶ島城を本拠とする。所領は28万石。
天正10年(1582)、本能寺の変後の清州会議で、織田家の後継者になろうとしたがかなわず、尾張・伊賀・南伊勢100万石を領する大名となる。
天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀吉に味方し、戦後北伊勢をも領有し、伊勢長島城に移る。 所領はおよそ124万石。
天正12年(1584)、徳川家康と語らって羽柴秀吉と小牧長久手で戦うが、秀吉と単独講和し伊賀と伊勢の大半を割譲し、清州城に移る。 所領は70万石くらいか?
天正18年(1590)、小田原征伐後、東海地方への移封命令を拒否すると、改易され下野烏山に流罪となる。後、秋田、伊予に移される。
文禄元年(1592)、家康の仲介で赦免され、大和国内で1.8万石の御伽衆となる。
関ヶ原の戦いや大坂の陣では、どっちつかずの態度をとる。
元和元年(1615)、上野甘楽郡と大和宇陀郡で5万石の大名となり、小幡を本拠とし、楽山園を造る。
しばらくして、小幡藩を四男信良に譲り、京都に隠棲する。
寛永7年(1630)、京都北野で没する。享年73歳。

信秀─┬─信長─┬─信忠
   │    ├─信雄─┬─信良─・・・【上野小幡⇒出羽天童2万石】
   │    │    └─高長─・・・【大和松山⇒丹波柏原2万石】
   │    └─信孝
   └─長益─┬─長政─・・・【大和芝村1万石】
        └─尚長─・・・【大和柳本1万石】

   麻 場 城   地図


城外から見た切岸
内堀
内堀とその外側に細い郭?
本丸
  「麻場城」、全く知らなかったが、素晴らしい城である。
  近くに来ただけで、切岸の険しさと大きさに圧倒される。
  そして上に登ると、今度は空堀の深さと大きさに再び圧倒される。
  嬉しかったのは、このような切岸や空堀は、通常灌木に覆われてその正確な姿をとらえにくいものだが、この城の灌木は全て刈り取られ、緑の草に覆われた見事な形状をさらしてくれている。
  本丸は広く、周囲に土塁は見られない。 しかし、深い空堀に囲まれ、その空堀は土塁状の細い郭で囲まれている。 この土塁状の郭がどのような役割を果たすのか、私には大きな疑問である。
  ”あさば”でななく、”あなば”の城だな、と、同行者の声。

  麻場城メモ   (案内板より)
麻場城は、戦国時代のこの地の豪族白倉氏の居城であり、東方約500mに存在する仁井屋城と併せて「白倉城」と呼ばれ、典型的な別城一郭(双子城)であると言われている。
当城は、戦国時代初期の築城とされ、豊臣秀吉の小田原征伐時(1590)に、前田利家を総大将とする東山道軍に攻め落とされるまで約370年間の活躍があった。
                       平成13年9月 甘楽町教育委員会

   庭谷城 と 上野(うえの)城   


庭谷城(赤城神社)
上野城(吉田家)
  この地で面白いのは、中世の小さな城の一部が現在でも残されていることである。
  その例が「庭谷城」と「上野(うえの)城」である。
  どちらも私有地の一部であり、内部に踏み入れられないのは残念だが、石垣や土塁が残っているのは珍しい。
  その外側にあったはずの空堀はまったくなくなっているが、そこまで望むのは高望みか?



 2015年9月26日