下野箕輪城・児山城
箕輪城
地図
今日は「城郭史学会」主催の見学会に参加した。
12:30にJR宇都宮線の小金井駅に集合。駅周辺で昼食をとろうとしたが、それらしき店は全くない。かろうじて韓国料理の店が1店あるだけである。(しまった、弁当を持参すべきだった!)
集まったのは30数名、タクシーに分乗して最初の訪問地「箕輪城」に行く。箕輪城といっても、長野業政で有名な上州の箕輪城ではない。
城は、姿川西側の河岸段丘上にある。 城の東側は、当時はおそらく姿川か、湿地帯だったと思われ、防御は他の三方に重点がおかれている。 城は、南北に連なる三つの郭からなるようである。
北側:三の郭−現在、数件の民家がある。遺構は少ない。
中央:本郭−藪が茂り、磐裂根裂神社という小さな神社がある。周囲は土塁で囲まれている。
南側:二の郭−現在民家とバラの温室がある。周囲に少しの遺構がある。
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@二の郭南の空堀
| A二の郭南の土塁
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B本郭内部
| C本郭北側の空堀
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城の南から入った私たちが最初に目にするのは、二の郭の南側の空堀と土塁である。規模は小さいが、歓迎されるには十分である。
二の郭には大きなバラのビニールハウスがある。そこを通り過ぎると本郭である。
本郭は一面の藪で、「磐裂根裂神社」という小さなお社がある。 お社のそばにこの城の説明板があった。
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■箕輪城跡
城跡は、南北72m・東西90mの回字形の地形です。西南端には同じく土塁の跡を残しており山地築城と思われます。築城前の時代は、宇都宮・多功・小山に武将がおり、当時、国分寺一帯は、小山高朝公の所有地であり、寛正3年(1462年)10月初めに箕輪城を築いたと言われております。
正式な記録はないが、箕輪城の落城は、永禄元年(1558年)5月初めのころです。よって、この地域では、5月の節句には鯉のぼりを上げない習慣があります。
環境庁・栃木県
本郭とその両隣の郭間の空堀と土塁は圧巻である。堀底から土塁の上までは、10メートルくらいありそうである。
また、普通土塁は内側の郭側だけにあるものだが、ここには外側にもある。 この形式は後北条氏特有のものである、と西ケ谷先生の解説があった。(そういえば東京調布市の深大寺城もそうであるが、これは上杉氏の築城)
児山城
地図
箕輪城から再びタクシーに分乗して児山城に行く。
戦国時代、箕輪城は小山氏の城だったのに対し、児山城は宇都宮氏の城。 この両城の間では、何度か両氏の戦いがあったそうである。
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■栃木県指定史跡 児山城跡
昭和36年5月6日指定
この城跡は、姿川東岸の台地上に、谷や丘陵をたくみに利用して築かれた平城で、本丸の堀と土塁がほぼ完全な形でのこされています。土塁の四隅は他の部分に比べ、高く築かれていて櫓があったと考えられます。本丸以外にも、周辺には部分的に堀や土塁が現存していて、城の範囲はかなりの広さであったと想像されます。
本城は、鎌倉時代後期(13世紀後半)に宇都宮頼綱の四男多功宗朝が、その二男(または三男)朝定にこの地を分封し、築城したと伝えられています。
石橋町教育委員会
城の本郭は、正方形で、周囲に高い土塁と空堀が巡らされている。
土塁の高さは十分である。 優に人の背丈の2倍はある。 それが西南端の虎口を除く四周にある。
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中世土豪の城跡で、高さ3〜3.5メートルの土塁が東西に比して南北に長く、北より南が張ったやや不変形な矩形状に築かれ、周囲には6〜9メートル巾の水濠がめぐり、南側では更に25〜30メートル外側に巾約3メートルの周濠跡をとどめている。
本郭の周囲数百メートル四方の区域にも、数多くの土塁や空堀の跡が残されていることも驚嘆。 しかも二重土塁も多く残されている。
2009.11.28