駿河興国寺城
興国寺城は、JR東海道線原駅の北2.5キロほどのところにある。
やっと涼しくなった秋の日に、城郭史学会の見学会に参加する。
前日の台風一過で晴天の好日と思っていたが、あいにくの小雨模様。
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本丸西側の土塁
| 伝天守台の石垣
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富士山系から連なる舌状台地を切り取って作った城である。
本丸と二の丸は緩やかな傾斜をもった広場で、運動場くらいの広さがある。
西側と北側には高い土塁があり、北側の土塁は不自然なくらい高い。
北側土塁の上に「伝天主台」と呼ばれる石垣が残されている。
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本丸北側
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| 本丸と北曲輪間の掘切
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本丸と北曲輪間の掘切は、この城の最大の見所であり、圧巻である。
堀底から本丸土塁上までは、優に20メートルを超える。しかも硬い土壌のせいで、ほとんど崩れていない
城域の南側は開発で破壊され、北側は新幹線で破壊されているが、中心部だけでも残されているのはよしとしよう。心配していた雨もほとんど降らなくなった。
2008年9月21日
興国寺城メモ
文明8年(1478)ころ、伊勢新新九郎長氏(北条早雲)が興国寺城に入ったという説がある。[北条時代]
延徳3年(1491)、北条早雲は伊豆韮山に本拠を移す。
この後、この城は北条氏・今川氏・武田氏の争奪の対象となる。
元亀3年(1572)、武田勝頼の臣の穴山梅雪の城となり、城番が置かれる。[武田時代]
天正10年(1582)、徳川家康の城となり、牧野康成、のち松平清宗が城主となる。[第一次徳川時代]
天正18年(1590)、中村一氏の城となり、毛惣重次が城主となる。[豊臣時代]
慶長5年(1600)、天野康景が1万石の城主となる。[第二次徳川時代]
慶長12年(1607)、天野康景が出奔し、城は破棄される。