小金城
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周辺地図
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小田急線から地下鉄千代田線に乗り換えちょうど1時間で「北小金」駅に着く。
乗ったときに使ったパスネットでおりようとしたが、ピンポンと鳴る。 あっ、残金不足かと気づき駅員さんのところへ持っていったら、ここはJRですから、パスネットでは降りられません、とのこと。 いつの間にかJRになっていたのである。
この駅の北側には高台があり、閑静な住宅街が拡がっている。 この一帯が「小金(こがね)城」である。
季節的には真冬であるが、今日は風もなく、ぽかぽか暖かい。
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小金城の中心部の交差点
| 歴史公園の碑
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小金城の城域は東西1000メートル、南北700メートルの広い高台である。
そのほとんどは住宅となっている。 時折畑がある程度である。
城のほぼ中心部は、交通信号のある四つ角である。南北に通じる道は、曲輪間の空堀だったところで、切り通し状になっている。
西北の隅に「大谷口歴史公園」がある。入り口にその碑があるが、大理石に向かい側の住宅がきれいに映っている。
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歴史公園の入り口
| 公園内部の土塁
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公園は高台の上にあり、上り口が二箇所にある。現代では階段がつけられているが、当時の情景は想像するしかない。
公園最上部は50メートル四方くらいか、周囲には1メートルくらいの高さの小さい土塁がめぐらされている。
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畝堀跡
| 達磨口の大土塁
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公園の脇に「障子堀」と「畝堀」の発掘跡が残されている。ともに北条流の築城術で、空堀の中に畝をつけて敵軍の動きを鈍くさせるためのものである。発掘当時は立派な畝があったのであろうが、削り取られたのか、周りが埋められたのか、その痕跡がまったくなく、ただの空堀になってしまっている。
歴史公園を後にして少し進むと「達磨口の遺跡跡」がある。巨大な土塁、櫓台とおぼしき跡が見られる。
根木内城
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水戸街道と根木内城
| 虎口(内側より)
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小金城から、いったん北小金駅に戻り、そのまま東に進むと「根木内(ねぎうち)城」がある。
この城は水戸街道により真っ二つに切り裂かれており、北半分は住宅地となって失われている。
南半分は「根木内歴史公園」として保存されている。
大手口の道を登ると土橋があり、それを渡ると公園の広場となっている。虎口周辺の土塁跡もみごとである。
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土塁
| 空堀、土橋
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土塁、空堀は、さほど広い範囲ではないが、高く、深く保存されており、当時の姿が容易に想像でき、非常に好感が持てる。
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北側の小さな曲輪
| 東側より
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公園の北側の空堀を利用した通路と、水戸街道の間に小さな曲輪跡がある。 小高い土塁に囲まれており、散策路にはなっていないため、人跡がない。 崖下の水戸街道の騒音さえなければ、不思議な空間である。
東側は田の跡と川があり、当時は広い湿地帯で、城の天然の防御壁になっていたはずである。
会話を楽しむ若いふたり、子犬と散歩する若い女性、ジョギングする男性、いろんな人が公園を楽しんでいる。
暖かい冬の日の2時間半の散策であった。
根木内城、小金城メモ
1460年、千葉氏の一族、高城胤忠が根木内城を築く。
1478年ころ、上杉氏の家臣、太田道灌に攻撃される。
1537年、根木内城主高城胤吉が小金城を築城し、根木内城より移る。築城祝いに胤吉の義兄佐倉城主千葉介昌胤も来城し、数日間祝宴に興じたとのこと。
1560年、長尾景虎(上杉謙信)に攻められた古河公方・足利義氏が一時小金城に逃れる。 高城氏はこのころ北条氏の被官となる。
1566年、上杉謙信に攻められるが、篭城して持ちこたえる。
1590年の小田原合戦の直前の「北条家人数付(毛利家文書)によると
『 一、高木(高城胤則) 下総こかね井城(小金城) 七百騎 』
とある。 700騎は、石高にすると、3〜4万石に相当する。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めのとき、浅野長吉により落城。
一時徳川家康の五男・武田信吉の居城となったが、1593年、信吉が本佐倉城を経て水戸に移ると廃城となる。
1962、1991年、宅地造成に際して、松戸市により発掘調査が行われる。
桓武天皇─(5代)─平忠常─千葉常将─(3代)─常胤─┬─千葉胤正─┬─(11代)─千葉昌胤─利胤─胤富─邦胤─重直【本佐倉城主3000騎】(重直は、北条氏政の7男)
│ └─(?代)─高城胤忠─胤吉─胤辰─胤則【小金城主700騎】
├─相馬師常─・・・─胤治【守谷城主100騎】
└─国分胤通─・・・─胤通【矢作城主500騎】
2007年1月11日