大塚・歳勝土遺跡公園


  東急田園都市線「あざみ野」で、横浜市営地下鉄3号線に乗り換え、「センター北」で降りると、博物館の建物がみえる。 「横浜市歴史博物館」である。 特別展「発見!巨大集落」が開催中である。三内丸山を始め全国各地の巨大集落から集められた土器などがところ狭しと並べられている。


竪穴式住居   道を隔てて隣にある遺跡公園へは博物館の屋上から専用の橋を利用して、直接行けるようになっている。
  縄文集落の遺跡の復元遺跡で、竪穴式住居が6、7個ある。
  幅、深さともに2mくらいの堀が周囲を取り囲んでおり、その外側に柵がある。柵が堀の内側でなく、なぜ外側にあるのか不思議である。絶対破られない柵ならともかく、一箇所でも破られると、敵の攻撃をどのように防ぐのだろうか。そんなことを考えながら、遺跡公園を後にする。


  茅 ヶ 崎 城   


  公園を突き抜け、狭い階段道を降り、車道に出る。車道から川向こうに小高い丘が見える。これが「茅ヶ崎城」である。曇っていた空が明るくなり、少し汗ばむ。寒いと思って着ていたジャンパーが重く感じられるようになってきた。
  城山の外周は住宅と切り立ったコンクリートの崖が取り囲み、その外側に車道が一周している。登り口を探したがなかなか見つからない。ぐるっと一周近くしそうになり、公園で子供と遊んでいるお父さんに、尋ねると、今きた方向を教えてくれた。
  教えてくれたあたりに、一箇所だけ登り口のようなところを発見。横に享保4年の年代の入った石像があるが、とてもそんなに古いもののようには見えない。人が入れないように簡単な柵と針金で囲われているが、針金の隙間が広くなって人が出入りしているらしい痕跡があったので、そこから忍び込む。


右:中央郭 左:北郭   資料によると、この城は中央の郭と、その東、西、北に三つの郭を配した、シンプルな構成である。四つの郭はすべてほぼ同じくらいで一辺40〜50mの長方形である。
  登り口は、西北の方向から、そのまま掘り切りにつながり、中央郭の下にぶつかったところで左右に分かれる。右は西郭との間の掘り切り、左は北郭との間の掘り切りである。まずは左にすすむ。道は登り坂で、郭まで5mくらい高さがあったのに、ついに北郭とほぼ同じ高さにまでなったところで、中央郭の虎口になっている。


中央郭内部   1mくらいの高さの虎口を登ると中央郭である。中央郭は深い雑草と潅木と蜘蛛の巣に被われ、足の踏み場を探すのに苦労する。周囲は雑木が生い茂っており、土塁になっているらしいが、近づけない。   虎口に戻り、先ほどの掘り切りをそのまま進むと東郭になるはずだが、背の高い雑草と潅木に拒まれ行けなそうもない。
  北郭は、中央郭とは大きく異なり、背丈の大きい竹藪である。竹は多いが、足場は悪くない。季節によってはたけのこがいっぱい生えていそうなところである。西の方だけ、一箇所土塁が続いているところがある。


堀切りから見た中央郭   いったん元の登り口に戻り、今度は中央郭と西郭の間の掘り切りを進む。こちらも最初は中央郭とは5mくらいの深さがあるのに、だんだん登るうちに、両側の郭とほぼ同じ高さになる。それにしてもこの掘り切りはまっすぐ50mくらいつづき、途中に何の仕掛けもありそうにない。あまりにもまっすぐ過ぎて、城のつくりとしては、幼稚でもある。しかし、深いところから両側の郭を見上げると、さすが城である。元の姿を想像すると、戦国中期の城が彷彿とさせられる。
  西郭は潅木と竹の密生する雑木林で、中へはあまり進めない。中央、北、西の三つの郭の現状がそれぞれ異なる様相を示しているのは面白い。
  この城の所有者は一人らしい。維持管理するのも大変だろう。しかし、城址としての何の案内板も標識もない。

茅ヶ崎城メモ

 管領上杉氏の築城と思われるが、起源は不明。
 その後、北条氏の所有となる。
 1524年ころ、北条氏が多摩川ラインを超え、これ以降戦略的な意味が少なくなり、あまり改修が行われなくなった。
 1559年の「北条氏所領役帳」では、50貫200文の座間氏の居城となっている。


  小 机 城   


  地下鉄「センター南」から乗り、新横浜の一つ手前の「新横浜北」駅で降り、少し歩くことにする。地図でみると小机城まで2kmくらいである。
  鶴見川にかかる橋を渡る。川の手前の小山の頂上に資生堂のビルが巨大な城の様にそびえる。この小山が、太田道灌が小机城を攻めるときに築城した「亀之甲山陣城」らしい。川を挟んで、小机城の城山と正に対峙している。


小机城山   鶴見川の土手沿いに歩きたかったが、あいにく川岸の大改修中で、入れない。仕方なく車道を進む。

  城山には容易に近づけるのだが、この城も登り口が見つからない。登り口かと思って登っていくと、民家の庭先に出たりする。城山の方から降りてきたらしい年配の人がいたので、入り口はどこかと尋ねたら、もう少し行った所に標識がありますので、そこから登るといいですよ、と教えてくれた。やっと「小机城址市民の森」の標識を発見。


本丸への土橋   登り口は谷筋のなだらかな道であるが、角度をつけて何度か曲がりながら登るうち、いつのまにか両側が堀になり、狭い土橋になる。土橋をわたると、広場である。ここが本丸である。虎口の脇には土塁がしっかり残っている。
  この城は、山頂をほぼ同じ高さの平面に削りとったところに南北に2本の堀切を入れ、西側の本丸、東側に二の丸、その間に南北に細長い郭を配している。掘りきりはかぎ状に曲がっており、郭の形を複雑にさせている。


本丸内部   本丸の周りは土塁と木立にネットがはってあり、絶好の少年野球城になっている。まさに練習試合中で、時折、コーチの甲高い声が響く。
  本丸の西側は第三京浜に見事に切り取られているが、その向こうにもやや低い山があり、小机城の一部と言われている。
  本丸北側の堀切は、角度がなく、2〜3mくらいの深さしかない。そのため、たやすく堀底に登り降りできる。中は落ち葉の積もった歩きやすい道になっており、随所に階段と手すりがついている。遊歩道としては、いいのだろうが、これでは防御にならない。


本丸から二の丸につづく土橋   南側の掘り切りは深く、人が入るのはたやすくない。往時は、どちらももっと深く厳しい空堀だったのだろうと想像するだけで我慢する。
  本丸と二の丸の間は、土橋を二回わたる。


二の丸の櫓台   二の丸入り口に櫓台。以前にはあったらしい模擬櫓は撤去されている。二の丸は背の低い雑草で被われた南半分と、ベンチの設けられた北半分からなる。周囲は土塁がめぐらされていたはすだが、老人の歯のように、ところどころだけ、ほんのごく一部だけが残っている。
  二の丸の外周は上からでは木に隠されてよくわからない。本丸から降りていける掘り切りの遊歩道を二の丸方向に進んでおくべきだった。また、この城には、掘り切りが二重に回り、その間に土塁のある「比高二重土塁」が有名だったのだが、よく観察するのを忘れていた。
  二の丸の西側の掘り切りはそのまま、出丸風の小さな郭に続き、そこから下に降りる細い道が続く。枯葉が積もり、滑りやすい。先ほど入り口を尋ねた人が出てきた道に出た。

  この城は、堀に降りる階段、堀底の遊歩道、手すりなど、史跡を「城」でなくし、散歩道に変形してしまっている。しかし、コンクリートが少ないのは良しとしたい。
  茅ヶ崎城の所有者が1人だったのに対して、この城の所有者は19人だそうな。
  10分ほど歩くと、JR「小机」駅に着く。駅のベンチで電車を待っていたら、ズボンの足元にとげのある草の実が何十個もついているのに気がついた。「橋本」へ向かう電車に乗る。

 平成12年11月25日

小机城メモ

 1478年  太田道灌(扇谷上杉氏の家臣)、豊島泰経(長尾景春の味方)の守る小机城を攻め落とす。
 1516年ころ 北条氏のものとなり、大改修が行われる。
       その後、北条幻庵、氏尭、氏光ら北条一族が代々の城主となる(下図@A・・・)。
 1559年の「所領役帳」では、小机衆29人、合計3438貫の中心地となっている。
       貫高から計算すると、500〜700人くらいの兵力である。
 1590年  小田原の役のときは、放棄されていたようである。

 北条早雲┬氏 綱┬氏 康┬氏 政−氏 直
     │   │   └C氏光(1590高野山にて没)
     │   └B氏尭(1560〜城主)
     └@幻庵(宗哲)(1589?没)−A三郎