上総の城めぐり2
真里谷(まりやつ)城
真里谷城はすべて山の中である。
実にへんぴなところにある。
上総武田氏の本拠地なのに、周囲に人家はなく、田畑も全くない。
最も近場の駅から直線距離でも数キロある。
現在は「木更津市立少年自然キャンプ場」として周辺が整備され、アクセスも便利になっている。 しかし、それでも車のない人が行けるところではない。
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(A)二の郭
| (B)城山神社
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(C)主郭の虎口
| (D)主郭の虎口内側
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(E)主郭内部
| (F)主郭東側の土塁上部
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麓の駐車場から、さらに車道が続くが、その道の両側に「四の郭」「三の郭」「二の郭」の標識がある。
その内の一つの「二の郭」に行く。 小高いところに削平地らしきところがあるが、明確に郭跡とは見えにくい。
さらに進むと「城山神社」があり、その背後には神社よりはるかに高い土塁が巡っている。
その脇に主郭と呼ばれる郭がある、虎口には明瞭な内枡形で守られている。 内部は広い長方形の広場であり、周囲は土塁で囲まれているが、東側の土塁は一段と高い。
周囲は腰郭風の郭群が取り囲んでいる。 キャンプ場やその設備はそれらの中にあり、決して主郭部分を破壊していない。
【真里谷城メモ】
1456年ころ、武田信長が長南・真里谷城を拠点とする。
その後、長男信高が長南城を、次男清嗣が真里谷城を拠点とする。
1537年、真里谷武田氏に内乱があり(天文の内乱)、武田信隆は小弓公方足利義明に降る。
その翌年、第一次国府台合戦で小弓公方が滅亡し、武田信隆が真里谷に返り咲く。
この後、里見氏と北条氏の勢力圏争いの中でかろうじて維持。
1550年ころ、北条氏の勢力圏内に入る。
大多喜城
真里谷城から1時間ほどのバスで、大多喜の町に着く。
城の麓のバスの中で弁当を食べて、大多喜城の見学に行く。
家康が江戸に移封されたとき、家康の配下のビッグ3は、
上野高崎・井伊直政12万石
上野館林・榊原康政10万石
上総大多喜・本多忠勝10万石
であった。 この大多喜がいかに大きな存在であったかが分る。
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(A)薬医門
| (B)水堀跡
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(C)小田喜城虎口
| (D)小田喜城本郭
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残念ながら、近世の大多喜城に見るべきところは少ない。
天守閣風の博物館は、千葉城、館山城などと同じ空想作品に過ぎない。
郭の跡を示す土塁や堀も明瞭でない。
わずかに、城北部の広い水田が水堀跡と認識できる。
また、二の丸にある高校の敷地内に移築されている「薬医門」は、千葉県に残る唯一の城郭建築だそうである。
この近世の大多喜城の道を一つ隔てたところに中世の小田喜城がある。
実はこの城には、10年以上前に訪れている。
道筋や大まかな景観はそのときとは少し変わっている。
本郭とおぼしきところは竹林で、奥に土塁跡らしきところも見えるが、鬱蒼とした竹林で、写真写りも良くない。
【小田喜城・大多喜城メモ】
鎌倉幕府奉公衆の二階堂氏の一族の小滝氏がこの地を所領とする。
享徳の乱のとき、小滝氏は武田氏によって滅ぼされる。
天文13年、武田朝信が、里見氏の武将正木時茂と戦い敗死。これより正木氏が小田喜城主となる。
天正18年、徳川家康の入国とともに、本多忠勝10万石。
慶長5年、本多忠勝は伊勢桑名に転封、次男忠朝5万石。
その後、阿部氏、青山氏、稲垣氏、松平(大河内)氏が城主。
武田信長─┬─【長南】信高─道信─○─┬─宗信─┬─吉信
│ │ └─清信
│ └─○─豊信─氏信
└─【真里谷】清嗣─信嗣─┬─信清─信隆
├─【佐貫】信秋─義信
└─【小田喜】直信─朝信
土気(とけ)城
再びバスで1時間、さらに数十分歩いて土気城に着く。
この城域の中心部にはかつてJALの研修所があり、そのため内部に入ることができなかったらしい。
現在ここは老人ホームになっており、御厚意で見学および写真撮影が許された。
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(A)Vの郭と、キジ(画像合成)
| (B)Uの郭西側の土塁
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(C)Tの郭(実城)
| (D)実城東側の切通し
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まずは広ーいV郭が出迎えてくれる。 現在は何も生えておらず何の畑か分らないが、広ーい。
ケンケンと鳴き声がするのでよく見たら、何とキジである。 我々のことは一向気にせず、悠々と闊歩している。
小さな虎口からホームの敷地内に入ると、主郭群である。
西側に屈曲した土塁が良く見える。 長さも高さも十分にある。
高さに驚いていたが、土塁の切れ目から外側を見ると、巨大な空堀である。 幅も広いが、その深さも十二分にある。 空堀がこんなに深いのなら、こんなに高い土塁は必要ないのに、と思ったりした。
本郭部の東側に続く切通しには驚いた。 鎌倉の切通しを思わせる巨大さである。 しかも200メートル以上は続いている。
【土気城メモ】
千葉氏の家臣の原氏の国衆の一つの酒井氏の居城である。
16世紀、里見氏と北条氏の抗争の中で、小大名の生き残りをかけて、両氏に従属と反抗を繰り返した。
小田原合戦のときは北条氏に属し、後徳川氏の旗本となった。
御茶屋御殿
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(A)土塁と空堀
| (B)内部
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御殿とも御茶屋ともいう。
家康が鷹狩のときに使用した宿泊所だそうである。 街道沿いの町はずれにひっそりと佇んでいる。
方一町の正方形の広場が土塁と空堀に囲まれている。 南北に虎口があり、そこに内枡形土塁の形跡らしきものが残されている。
【御茶屋御殿メモ】
慶長19年、家康は下総東金で鷹狩りすることにし、佐倉城主土井利勝にその準備をさせる。
土井利勝は、東金御成街道と数か所の御殿を普請。
寛文11年、すべての御殿を取り壊し。
本日の万歩計 25898歩!
2015.5.9