上総の城めぐり


上総武田氏系図
源頼義─┬─義家・・・【源氏本流】
    └─義光─【甲斐武田】義清・・・信満─┬─信重・・・信玄・・
                       └─【上総武田】】@信長─┬─A信高─B道信─C宗信─D吉信─E清信─F豊信
                                    └─(1)信興─(2)信勝─(3)信清─┬─(4)信隆─(6)信政
                                                    └─(5)信応─(7)信高
  @AB ・・・ 長南武田氏
  (1)(2)(3) ・・・ 真里谷武田氏

上総武田氏の系図は他にもいろんな説がある。以下はその例:
武田信長─┬─【長南】信高─道信─○─┬─宗信─┬─吉信
     │             │    └─清信
     │             └─○─豊信─氏信
     ├─【真里谷】清嗣─信嗣─┬─信清─信隆
     │            ├─【佐貫】信秋─義信
     │            └─【小田喜】直信─朝信
     └─ ○─【百首】道春

武田信長─┬─信高─┬─【真里谷】信興─┬─信嗣─┬─信保
     │    │         │    ├─【笹子】信次
     │    │         │    └─信秋
     │    │         └─【大多喜】信清
     │    └─【庁南】信道─宗信─吉信─清信
     ├─【峰上】信武
     └─【久留里】信房

武田信長─┬─信高─┬─【真里谷】信興─┬─信勝─┬─信保─信隆─【椎津】信政
│    │    │         │    ├─【笹子】信茂
│    │    │         │    └─信秋
│    │    │         └─【大多喜】信清
│    │    ├─【長南】道信─宗信─吉信─清信─豊信(信玄三男)
│    │    ├─【佐是】国信
│    │    └─【峰上】信武
│    └─【久留里】信房
└─【佐貫】信広

  百首城(造海城)    地図

行き止まりの登城道
バスより眺めた全景
  「ひゃくしゅ」城にしても「つくろうみ」城にしても変わった名前である。
  国道にバスを止めて、しばらく山道を登るが、すぐに通せんぼされて藪に突き当たる。
  そのあたりには土塁の残骸らしきものが残っているが、それ以上の道は続かなさそうなどで引き返す。
【百首城メモ】
  武田(真里谷)信興が峰山城とこの城を築城。
  真里谷氏の内紛により信隆・信政のとき、小弓御所足利義明、里見義堯らに攻められ、1537年以降は里見氏の城となる。

  峰山城    地図

土地の人たちに道を聞く
  次に峰山城を目指して登って行くのだが、道が分らない。
  回りには大きな農家が多く、お年寄りが多い。
  その人たちに聞くと、そこから10分も登ると、このお城のご家来だった人のおうちがあり、そこからさらに10分登ると城跡に着く。 近くには堰を止めたところなどもあるとのことである。
  大勢で登ると30分、城址見学で30分、降りるのに30分、ここで1時間半は費やせない。 残念ながら、ここも引き返す。

【峰山城メモ】
  真里谷信興のとき、峰山城と造海城を築いたという。、
  信隆・信政のとき、峰上・造海城に籠り、小弓御所足利義明に攻められ、里見義実・成義の領するところとなる。
  

  佐貫城    地図

入口の案内板
大手門の石垣
三の丸
二の丸から本丸に至る土橋
本丸脇の空堀
物見台
  中世に築城され、明治維新まで使われた珍しい城である。
  ほんの少しだが、大手門とおぼしきあたりに、石垣がある。 千葉県の城で、石垣が使われているのは珍しい。
  城主の阿部家の私有地だそうであるが、よく整備されている。
  三の丸の数段の郭群、広大な二の丸、土橋でつながった本丸、本丸の脇の物見台、趣のある城址である。


【佐貫城メモ】
  1539年、この頃城主武田義信。
  久留里城主里見義堯、佐貫城主里見義弘
  1556年、里見義弘、佐貫城を里見の本城とする。
  1590年、徳川家康の家臣内藤家長、2万石、後4.5万石。
  1622年、松平忠重1.5万石。〜1633年移封
  1639年、松平勝隆1.5万石。〜1684年除封
  1688年、柳沢吉保〜1694
  1710年、阿部正鎮1.6万石、明治に至る。

  飯野陣屋    地図

入口の案内板
大手虎口あたり
周囲の水堀
内部の古墳
  200m×150mのほぼ矩形の陣屋である。
  一周およそ20分の水堀がほぼすべて残されている。
  ごく一部に横矢のかかる折れ目があるが、基本的には完全な長方形である。
  大手門の内部は、当時は土塁空堀があったようだが、それは民家で破壊されている。
  面白いことに、内部に大きな前方後円墳をそのままの形でとりこんでいる。
【飯野陣屋メモ】
  1648年、保科正之の弟正貞、旗本より新封1.7万石、後2万石となり明治に至る。

  真武根陣屋    地図

おおきな広場
南方の土塁
  虎口とおぼしきところに石碑があるほかは、大きな1枚の広場があるだけである。
  しかし、南方の藪の中に屈曲した土塁と空堀があるようだ。
【真武根陣屋メモ】
  

2012.9.22