洒 水 の 滝
小田急新松田駅を降りると駅前の広場の向こう側にJR御殿場線の松田駅がある。20輌くらいの電車が来ても止まれるくらいのやたら長いホームに到着したのは、たった2輌の電車であった。好天気の休日とあって、混雑している。「御殿場線がこんなに混むなんて」と女子高校生たちがさわぐ。
車窓から眺める足柄の山並みがすばらしい。
山北駅に着く。駅についてもドアーは開かない。ドアーの横にドアーを開けるためのボタンがある。こんなの見たのは初めてだ。こじんまりした駅に降りる。11時。
駅前の商店街を抜け、道を西へ、そして道なりに南へ折れる。30分くらい歩くと、右は「洒水の滝」、左は「河村城址」の分岐点に来る。まずは、洒水の滝へ進む。三連休の中日かつ絶好のハイキング日和のため、観光客が多い。20分ほど、木陰の緩やかな道を登る。道の脇に野菜を売る店が並んでいる。みかん、ゆず、柿、梅干。柿の枝に実が10個くらいあるのが200円、ゆずが3つで100円。安い。直径10cmの大きなみかんくらいのゆずがある。「獅子ゆず」というものらしい。
滝の落差は69m。数日前からの雨のせいで、水量が多い。滝壷に近づくとしぶきに濡れる。朱塗りの橋が二つあり、滝の白と木の緑に対比して色を添えているが、何のためにあるのかよくわからない。写真をとる家族連れが多い。
先ほどの分岐点に引き返し、河村城に向かう。道の両側はみかんやゆずの畑になっている。城は滝ほど人気がないせいか、観光客はぐっと少なくなる。前を若い二人連れがのんびり歩いていく。
河 村 城
酒匂川に新しくかかった橋から目指す河村城址が望める。酒匂川も水量が多い。
のどかな道を少し歩くと「河村城址」の指示板がある。この町は至る所に「JR山北駅」、「洒水の滝」、「河村城址」の3つの方向指示板がある。方向指示板のとおり左に折れると、人里を離れ、木立の中の緩やかな山道になる。道は程よく整備されている。
10分も登ると、突然視界が開け、広い芝生の広場に出る。ここが本丸か。足元に縄のようなものがあったので、何だろうと見ると、蛇だ。山城にはいるんだよね、いつも蛇が。こっちはびっくりして、早足で逃げ去ったが、蛇の方は鎌首を上げたまま、動こうとともしない。
本丸全体は長さ100mくらいの変則な三角形をしている。全体が芝で整地されており、周辺にベンチ、案内板、社、碑などがある。散策している人、弁当を食べている熟年の二人、秋の陽気を楽しんでいる。
本丸の北隅に碑と社があり、その奥からさらに北側の小さな二つの郭が続いている。「小郭」と「茶臼郭」である。本丸と小郭の間の畝堀がよく見える。
本丸の東側には、浅い堀切を隔て「蔵郭」につながる。この郭は一面の松林である。この先には「近藤郭」、「大庭郭」と続いているはずだ。郭の北側に細い道があったので歩いていったがどこまでも右側は松林、左は急勾配の谷。足場が良くなく、途中で引き返す。
もう一度本丸に戻り、ベンチに腰掛け、朝作った弁当を食べる。
本丸から東に降りる道が整備されている。この道は茶臼郭へも通じている。小郭へは登れない。小郭と茶臼郭の間には「お姫井戸」なるものがあることになっているが、そんなものは見つからず、替わりに本丸と小郭の間と同じ様な畝堀がある。郭と堀の底までの高さは10m以上もあろうか。茶臼郭の上から覗き込むと小さな池が並んでいるように見える。
本丸とそれに続く二つの郭、その間の二つの畝堀だけは整備されているが、その他の郭は全くの雑木林である。
小郭の東あたりから、まっすぐ下に急勾配の階段がある。もちろん現代のものだろう。階段を下りると、城址の案内板があり、再び人里になった。
駅までは、約10分。タイミング良く、電車が来た。
山北駅発2時。帰り伊勢原で途中下車して、「岡崎城」へ行こうかとも考えていたが、つい電車の中で寝てしまった。
2000年11月4日
河村城メモ
1352年 南朝の河村一族、新田義興・脇屋義治とともに河村城に立て篭もり、畠山国清を主将とする北朝と戦う。
1353年、岸の南原の戦いで河村秀国・秀経討ち死にし、新田義興は越後に逃れる。
1430年ころ、上杉憲実の持ち城となっていたが、足利持氏方の大森憲頼が攻め落とす。
1500年ころ、北条早雲が征服する。
1570年ころ、武田氏との争いが激化しているころに補強される。
1590年の小田原の役のときの状況はよくわからないが、このころ廃城となった模様。