比企の城めぐり
川越に住む城好きの友人が、お城めぐりを企画してくれた。
今日はその人の運転と解説つきで、城跡散策である。 幸いにも天気がよく、時折北風はあるものの、車の中は時折暑く感じるときもあるくらいである。
それにしても、一日で5つのお城めぐりは、車を運転しない私にとっては初体験。 友人に感謝感謝である。
(1)河越夜戦跡〜東明寺(川越市)
天文15年(1546)、古河公方足利晴氏・山内上杉憲政・扇谷上杉朝定が連合して、北条氏の重要拠点の河越城を攻めた。
北条氏康が救援に向かったが、多勢に無勢。どうみても連合軍の方が優勢。
しかし4月20日、安心しきった連合軍を北条軍が夜襲し、連合軍の完敗。扇谷上杉朝定ら2800人が戦死した。このときの最激戦地がこの東明寺付近といわれている。
大いちょうのたもとに「川越夜戦跡」の石碑がある。
(2)河越氏館(川越市)
|
|
公園全景
| 復元堀跡
|
|
|
北側の土塁
| 城跡碑とその向こうに西側の土塁
|
河越氏館跡がつい3日前に、「史跡河越氏館跡」として整備されオープンされた。
この館の起源は12世紀にまでさかのぼり、鎌倉・室町期の河越氏の時代、室町後期の山内上杉氏の時代、そして戦国期の北条氏の3つの時代の、それぞれに郭の形が変わっているらしい。
200メートル四方の広い敷地は、発掘された堀などが分かりやすく示されている。
先生に率いられた子供たちの団体が遊びに来ている。 地元のケーブルテレビの撮影が行われている。
「城館」と「史跡」と「公園」を組み合わせた不思議な空間である。
もっとも、「城館」としての現在見られる遺構は、敷地西側にある約200メートルの土塁と北側にある約20メートルの土塁だけである。
河越氏館メモ
治承4年(1180)、河越重頼、源頼朝に従う。このころが館の第1期。
正平23年(1368)、河越直重を大将とした平一揆、鎌倉公方に反乱を起こすが、上杉朝房らの軍により平定される。これにより河越氏は事実上滅亡。
この後、しばらく常楽寺の寺域の時代が続く。
長享元年(1487)、山内上杉と扇谷上杉の対立が始まる。山内上杉顕定が陣所を構える。このころが第2期。
天文15年(1546)、河越合戦のころからは北条氏の支配となり、永禄2年(1559)ころから、家臣の大道寺政繁が治める。このころが第3期。
天正18年(1590)、北条氏が豊臣氏に降伏。城館の使命を終える。
桓武天皇─・・・─平高望─┬─国香─・・・─清盛
└─良文─・・・─┬─・・・畠山重忠
└─・・・河越重頼─┬─・・・ 直重
└─ 源義経室
(3)上戸日枝神社(川越市)
永暦元年(1160)、河越氏が後白河上皇に所領を寄進したことにより、上皇の邸内にあった新日枝神社を分祀したものと言われている。
(4)青鳥城(東松山市)
|
|
| 外郭の土塁
|
青鳥城は、道路に囲まれた東西500メートル、南北200メートルくらいの広い地域である。
大きな二の郭は十数軒の民家と畑である。 北側には長くて高い土塁とその外に空堀がめぐっている。 その中央部に屈曲部があり、かなりの見所となっている。 外堀の深いところから土塁の上までは20メートルくらいありそうである。
中央南部に本郭があり、三方が土塁で囲まれている。土塁の外は深い藪で、入り口を探すのに苦労する。本郭内部は一面の畑。
城域の南側には、土塁も空堀もない。 何とも不思議だが、南側は当時湿地帯だったのかと想像する。
しかし人里の中で、これだけの土塁と空堀が残されていることに感嘆。
青鳥城メモ
「小田原衆所領役帳」に、「狩野介四十貫文比企郡青鳥居」とある。
その後、小田原北条氏の家臣・松山城主上田朝直の家臣、山田直安が城主となる。
山田直安は、北条氏滅亡後徳川家康に仕え、300石の旗本となる。
(5)杉山城(嵐山町)
杉山城に来たのはこれが2回目である。 前回に来たのは、もう8年も前になる。
そのときは、藪が多くて見晴らしが悪いものの、巧みの多さに感激したものである。
その後、町やボランティアの方による整備で、すごく見晴らしがよくなった。
郭の配置、郭間の移動路、数多い横矢掛り、屈曲した空堀、などなど何度見てもあきない。
数年前に「県史跡」が「国史跡」に昇格したそうだが、納得納得。
杉山城メモ
1550ころ、松山城主上田氏の家臣、庄氏(庄野氏?)が城主?
その後、北条・上杉氏の争いの真っ只中に位置するが、消息不明
(6)大堀山城(川越市)
|
|
| 入り口
|
|
|
|
本郭の段差
| 本郭北東隅の社
| 二重堀(土塁とその両側に空堀)
|
大堀山城は、平地の中のひっそりした森のような城である。全体の高低差は殆どない。
中央の本郭は広く、(案内図などには記されていないが)一部分一段と高い部分がある。
本郭の周囲には2重、3重の空堀がめぐらされ、堀と堀の間は、細い土塁か、細い帯郭である。
大堀山城メモ
享徳の乱(1455〜83)、長尾景春の乱(1476〜80)のころに築かれたといわれている。
(7)大穴城(坂戸市)
大穴城は、マンションが並ぶあたりに、城跡の案内図とほんのわずかの土塁跡が残されているだけである。
開発の中に99%が飲み込まれた典型的な例。
大穴城メモ
江戸初期に旗本本多氏が陣屋を構えた。
2009.11.18