川越の町並み

蔵の町並み
  新宿から、JR埼京線で1時間弱で川越に着く。 最近ではここを「小江戸」と言うらしい。
  名物は蔵の続く通りである。 重厚な蔵造りの店が並んでいる。
  朝まだ10時だが、さすがに7月ともなると陽のさすところでは暑い。 陰のある東側を歩く。

時の鐘
  もう一つ有名なのが「時の鐘」。 地震にも風雪にも耐えてきた存在に敬意を表したい。
  ただし、江戸時代の世界の中に存在すると期待していたのだが、少し奥に入ると、人家もあり、「ラムネ150円」の看板もあり、現代の匂いがプンプンである。
  
  右の地図は、明治14に陸軍が作成した5000分の1の地図で、「迅速二万分一・補図・川越城及市街」である。
  城の中には、中学校、警察と囚獄所などができているが、曲輪の様子は崩れていない。
  それにしても、現代ではその片鱗さえみることができない。 土塁や堀の跡はどこを探してもない。 わずかに、市役所前の通りが、東側で不自然にカーブしているところがあり、当時の地図と照らし合わせて、食い違いの跡だと理解できた。

  川 越 城   

本丸御殿
  すっかり影のなくなったお城のせめてものつぐないか、本丸御殿の一部が公開されている。
  唐破風の玄関がいい。

  しかし、関東平野にあった城は、なぜこうも、ほんとにどこもどこも、壊されているのか。

本丸御殿の内部(広間)
  一番広い「広間」は30畳敷きで、その他に8〜10畳敷きの部屋が14部屋ある。
  巾のある廊下は、昔通った小学校の廊下を思い出させてくれる。
富士見櫓の北に続く土塁
  富士見櫓は、この城の天守閣である。 さしたる案内板もないので、探すのに苦労した。
  地図をたよりに民家の前の細道をたどると、やっと一段高いところに「富士見神社」を見つけた。 最高部に10メートル四方の空き地がある。 ここが富士見櫓跡であろう。
  周囲は至るところに斜面が崩れそうで、補修のあとが痛々しい。
  その中で、北方に巾1メートル、長さ10メートルくらいの土塁跡があるのを発見。 両側は深く、現代の生活の場とは数メートルの高度差がある。 この城址に来て、初めて”城址”を発見した!


  帰りは西武新宿線の「本川越」駅から、特急「小江戸」で帰る。 朝早かったせいで、グーグー寝てしまった。

 2004年7月4日

 川越城メモ

   長禄元年(1457)、上杉持朝の家臣、太田道真・道灌父子が築城。
   天文6年(1537)、後北条氏が占拠。
   天文15年(1546)、川越城を奪回しようとした上杉軍8万を北条軍8千が奇襲勝利し、上杉氏は関東から撤退。
   天正18年(1590)、豊臣秀吉の軍、前田利家によって落城。 同年、徳川氏の領地となり、酒井重忠が1万石で在城。
   これ以降、代々江戸幕府の大老・老中の居城となる。 寛永16年(1639)には、知恵伊豆、松平信綱が城主となっている。
   嘉永元年(1848)、本丸御殿を造営。