勝 沼 城   


お寺、お墓、城山    城郭案内図
  JR「東青梅」駅から住宅街を北に10分ほど歩いたところに「光明寺」という大きなお寺があり、その裏山が「勝沼城」である。 案内図では、「師岡城」と書かれている。 城域とその北側の山林地帯一帯が保全地域として保存されている。 保全地域全体は、500メートル四方はある。


本丸、向こうの方に土塁が見える   寺のすぐ裏山に本丸がある。 一部にはっきりした土塁が残っているが、崩れたところが多く、その分内部に起伏があり、虎口、土塁、堀切の関係がつかみにくい。


本丸南側の堀切   本丸の南側は、2重、3重の堀と土塁がめぐらされている。 外側の堀は深く、底の道は日当たりはあまり良くないが、歩き易い歩道になっている。 堀の外側にも土塁がある。
  本丸南側の掘切はそのまま三の丸の南側の掘切につながる。
  三の丸は現在墓場となっている。 南側に土橋を経由して馬出し、北側の一部に土塁が残っている。
  お墓の中にひときわ雄大なのがあり、「師岡家・・・」の墓銘がある。 城主のご一族であろうか。


二の丸西側の散策路   二の丸を取り囲むように散策路ができており、森林浴には最適である。 折から「駅から歩こう」運動がおこなわれており、ハイキングを楽しむ一団に何度もすれ違う。 柔らかい土の道を歩くのは心地よい。


大手口   本丸の北側に二の丸がある。 本丸と二の丸の間に西側に下りる細い道がある。 これが大手口だったのではないだろうか。 「案内図」ではこの付近を「落込」と書いている。 険しさは少ないが、中世のある時期、城主たちがこの道を往来したのかと想像するだけで楽しい。

 2002年4月28日

 勝沼城メモ

   永正6年(1509)、連歌師の宗長がこの城を訪れ、城主三田氏宗・政定父子の歓迎を受ける。
   三田氏は、元は三田(現在慶応大学のあるところ)一帯の領主だったが、このころは上杉氏の被官として多摩川上流一帯の領主となっていた。
   永禄6年(1563)、三田綱秀、小田原の北条氏照に攻められ、落城。 北条氏の家臣師岡将影が城主となる。
   天正18年(1590)、小田原北条氏の滅亡とともに、廃城となる。