片 倉 城
京王線の「片倉駅」のホームから片倉城が臨める。 城は、小比企丘陵の先端にあり、武蔵と相模をつなぐ古川街道を抑える要衝に位置している。 後北条氏が大永4年(1524)ころ、この周辺を領域としたころに築城したものとされている。
南武蔵を押さえる滝山城(後に八王子城)と本拠小田原城の中継地点として、大きな役割を果たしていたはずである。
全体としては小さいが、二つの曲輪の大きさは、北条氏の他の城のどれにもひけをとらない。
城は、基本的には東西二つの曲輪からなる。 東側が「本丸」、西側が「二の丸」である。
本丸は50メートル四方で、内部はきれいに整地されている。 北西隅にやや小高い矢倉台があり、この城で最も高く、天守相当の矢倉があったものと想像できる。
この矢倉は、天主としての役割、城の北方の防御、北条氏の諸城へののろし台、二の丸との橋に対する横矢、などの役割を果たしていたものと思われる。
二つの曲輪の間は、現在では浅い横堀で、橋がかけられている。 当時はかなり深かったはずである。
二の丸は、とにかく広い。 一辺が100メートル以上ある。 内部の構造が複雑でないのは、北条氏の兵站基地としての巨大な倉庫群が置かれていたのではないか、と推定する。
近くの保育園児が遊びに来ていた。 数十名の子供たちは、みんな小さな点にしか見えない。
城の虎口は、おそらく二の丸南側の1箇所だけである。 この虎口からは細い土橋状の経路が続いており、両側は藪に覆われている深い堀である。 この城の中で、このあたりだけが公園化されておらず、「蛇に注意」の看板もある。
このルートは、曲折しながら降り、いつか堀底の道となり、そして街道につながっている。 要所要所は土塁や矢倉で防御され、また本丸と二の丸からの防御も万全である。
城の北側は、「片倉沢」と「奥の沢」で守られている。 現在は北側の公園からの登山ルートが整備されているが、当時は人の通れない絶壁がこの城を守っていたはずである。
この城の防御で最も気になるのが西方向である。 なにしろ舌状台地の端に作った城だから、同じ高さの台地(現在は畑)とつながっている。 その境は大きな横堀で切断されているのだが、現状はその堀がかなり浅くなっている。
西側の斜面には、つつじがいっぱい植えられており、季節になると見事な景色であろうと想像する。
片倉城メモ
古くは長井氏の築城とされている。
大永4年(1524)、後北条氏がこの周辺を領域としたとき、この城が大改築されたものとみなされる。
この後、目だった記録はないが、八王子城、川越城などと本拠小田原城との中継城としての役割を果たしたものと思われる。
2006年6月1日