烏 山 城   



烏山城遠景
  5時半に起きて弁当を作った。
  宇都宮駅からJR烏山線に乗り換えた。 わずか2両の電車で、何と車両の中に整理券の発券機とゴミ箱がある。 約50分で烏山駅に着く。 丁度10時であった。
  駅から天気さわやかな中、市街を30分ほど北上する。
  国道沿いの人家が途切れたところから、烏山城山が望める。 さほど高くはない。



地図
  道路脇に「城山・毘沙門山入口」の標識と地図がある。 ここが、大手口である。
  道を登ると、正面に神社があり、その右に「三の丸」の跡がある。 さほど高くない石垣に囲まれている敷地である。
  不思議なことは、この三の丸などを取り囲むように堀があってもよさそうなものだが、周囲は通路である。 中世の戦用の郭ではなく、近世の居館を設けるためだけのようである。



七曲り
  三の丸の脇を左に@「七曲り」という山頂への道が続く。 七曲りというが、曲がり角はもっとたくさんあったような気がする。 谷底の道であり、雨でも降ったら川になりそうな道である。
  数日前の台風のせいか、何箇所かで道の真ん中に杉の木が倒れている。


車橋跡
  登り道が平坦になったところで、突如深い堀切りに出会う。 A「車橋跡」との標識がある。 細い尾根を深く切断し、つり橋を設けていたのだろう。



常盤郭の石垣
  少し進むと、石垣に出会う。 B「常盤郭」の石垣である。 中世風の素朴な石の積み方である。
  


吹貫門跡
  すぐ近くに、C「吹貫門跡」の標識がある。 土塁、石垣、空堀、通路が集中している。 このあたりが、この城の最も見所のところらしい。
  この重要な部分に枡形や馬出、横矢掛などの防御用の技術はあまりみられない。 武田氏や北条氏に比べて築城技術は進歩していなかったのだろうか。
  ただし、本丸を中心に複数の空堀が取り囲み、それはそれで勇壮である。


二つの本丸間の虎口
  最上部には二つの同じくらいの大きさで同じ高さの郭が並ぶ。 北側が「古本丸」、南側が「本丸」または「二の丸」と呼ばれている。
  どちらも中は杉林で、見通しと足場は良くなく、人の歩いた跡を歩くのがやっとである。 二つの郭の間にシンプルな形ではあるが、D土塁と虎口が確認できる。
  本丸の西北側には二重の堀が見られるが、潅木に被われ写真写りは良くない。


烏山市街
  二つの本丸の東側の腰郭を経由して、再度「吹貫門跡」を通り、「筑紫山」に向かう。
  山頂に展望台があり、烏山の城下町とその向こうに那珂川の清流が見える。 このあたりで弁当を食べることにする。 ポットの熱いお茶がうまい。
  山を降り、城下町を見物しながら烏山駅に戻る。 城下には蔵のある家が目立つ。 散策時間は2時間余であった。
  烏山発の電車は一方向しかなく、乗り間違うことはない。 こんどの電車は1両編成であった。


 2002年10月14日

 烏山城メモ

  1418年、那須与一の10代目の子孫、那須資重が築城したと伝えられる。
  その後、那須一族(那須七騎)の棟梁として、8万石の地を支配する。
  1590年、豊臣秀吉により、降伏が遅かったとの理由で所領を没収される。
  1590年より、成田氏、堀氏、松倉氏ら2〜5万石の所領となる。
  この間、2か月ではあるが、織田信長の次男信雄が170万石の大大名より2万石の烏山城主に転封されている。
  1725年大久保氏が2万石で入封し(後3万石)、以降明治に至る。

  那須与一宗隆(後資隆)─9代略─那須資重─資持─資実─資房─政資┬高資
                                  └資胤─資晴