金 山 城   



金山城案内図   JR東北本線(宇都宮線)の久喜で東武伊勢崎線に乗り換えて約1時間、「太田」駅に着く。 20分くらい歩くと「呑龍さん(大光院)」で、その境内の裏手が「金山(かなやま)城」への登山口、「西山ハイキングコース」のスタート地点になっている。 
  (上の図は、 太田市教育委員会文化財課のホームページ『太田のシンボル金山』 を利用しました。)

西城の西側の食い違い虎口   さほど大きくない松の林の中の程よいハイキングコースである。 最初は登りが多いが、途中から割合平坦になる。  30分ほどでモータープール(駐車場)に着く。  モータープールは、「西城」の下側の郭である。
  西城の西側に食い違いの土塁と掘り切りが残っている。 土塁はかなり崩れているが、何とか原形が想像できる状態である。 これ以上崩壊しないように是非とも手を打って欲しいものである。

西城と本丸の間の掘り切り   西城から本丸に進む。 ハイキングコースは、過剰に整備されすぎているように感じる。 なだらかな傾斜を降り、再び登る。 途中二箇所、掘り切りがある。 うち、ひとつは「西矢倉台西塹壕」と、古めかしい言葉の碑が立っている。 もう一つは土の堀でなく、近世の城のように石垣の堀だったようである。

石垣の土橋   馬場郭の下に来ると、見事な石垣の群れがお出迎えしてくれる。 この城は、中世の山城でありながら、石垣が極めて多く使われている。 「土橋」であるはずが、「石橋」としか見えない。 このあたりから大手虎口一帯にかけて、近年大復元工事が行われ、可能な限り当時の石組みを忠実に再現している。 そして、要所要所に案内板で丁寧な解説をしてくれているのが有難い。
  土橋の上には見張り台があり、関東平野が一望できる。 空気さえ良ければ東京のビルも見えるのでないかと思われる。

馬場郭   馬場郭には、当時の建物も復元され、郭の周囲には、物々しい戦旗が立てられている。 二種類あるうち、一つは新田氏のものとわかったが、もう一つが分からない。 これも新田氏のものか?

大掘り切りと月の池   馬場郭は、本丸との間に大掘り切りで分断されている。 掘り切りの最下部には二つの池、「日の池」、「月の池」がある。 何という優雅な名前だろう。 古いヨーロッパの街中の泉の雰囲気である。 しかし、井戸ではなく、こんな池がある城も珍しい。 しかも二つが大手の前後に並んでいる。

大手虎口   大手虎口も見事な石の造形である。 ふと、3次元版のテレビゲームが思い出された。 排水溝も見事に造られている。
  大手を登ったところの南郭には、きれいな休憩所がある。 ここで弁当を食べる。

新田神社   本丸は「実城」(みじょう)と呼ばれている。 明治になって「新田神社」が建てられている。
  本殿の脇には、昭和天皇や秩父宮さまがご幼少のころに腰掛けられた岩が残されている。
  本丸の北側にも「坂中砦」という郭があるはずだが、林が繁っており、道が良く分からない。

南木戸残塁石垣   本丸から南郭を経て、下に降りる。 「東山ハイキングコース」という名だそうだが、こちらのハイキングコースは、ただの山の中の道である。 途中に「南木戸残塁石垣」がある。
  細い道は、途中で何度か分岐し、また合流し、また分岐し、最後に一つになってドライブウェーにぶつかる。 不思議な道である。

南郭より眺めた八王子砦の二つの山   これらに他にも、南に「八王子砦」がある。 八王子砦は、大八王子山と中八王子山の二つの砦と、その間に200メートルくらい長い武者走りがあるそうである。 この武者走りを見たかったのだが、時間の都合で断念。
  起点の呑龍さんを経由して、太田駅に戻る。 秋の晴天、3時間半の散策であった。

  2001年10月20日

 金山城メモ

 応仁3年(1469) 岩松家純が築城。長尾景信らとともに、古河公方足利成氏と戦う。 岩松氏は、新田氏と足利氏の流れをくむもので、新田氏滅亡後は新田氏の本流を自称した一族である。
 文明10年(1478) 太田道灌がこの城を訪れる。
 享禄元年(1528)ころ、岩松氏の家臣横瀬泰繁が実権を握る。横瀬氏は、後に由良氏と改称する。
 このころから、上杉氏、武田氏、佐竹氏、北条氏らがこの城を中心に、北関東の覇権争奪戦を行う。
 天正12年(1584) 由良氏、北条氏に降る。金山城には、北条氏の城代が在城。
 天正18年(1590) 北条氏、豊臣秀吉に降る。金山城は廃城となる。最後の城主、由良国繁は常陸牛久に知行を得て明治に至る。
 明治8年(1875) 本丸に「新田神社」が創建される。

 源義家┬○−○−頼朝
    └○┬新田義重−義兼┬(5代略)−義貞
      │       └娘
      │        ├岩松時兼−・・・┬○−家純−明純−尚純−昌純
      └足利義康−○┬義純        └○−持国
             └(5代略)−尊氏
参考資料:
享徳4年(1455)、岩松持国が伝来の所領の正当性を明らかにするため、古河公方足利成氏に差し出した新田荘の目録
 合計 田   296町10代 (1町=10反=50代)  
    畠   100町30代
    在家  208宇    (軒数)
 内訳
    太田郷  田3町7反   畠4反10代 在家3宇 
    東牛沢郷 田11町30代 畠1町    在家9宇 
       ・・・中略・・・
    横瀬郷          畠3町5反  在家4宇 
    小倉郷        畠1町4反30代 在家2宇 
嘉応2年(1170)のときの荘園の状態を差し出したものだそうです。