神奈川台場
今日は「日本城郭史学会」主催の神奈川台場見学会に参加した。
あいにくの雨空で、最高気温も15度と寒い気候にもかかわらず、40名ほどの会員が参加した。
京浜急行線「神奈川駅」に12時15分集合である。
右の地図は、明治初年と現在の神奈川の地図である。
本日の案内人は、学会会長の西ケ谷先生である。 出発前に大きな古地図を拡げて説明がある。
10分くらい歩くと「台場公園」なるものがあるが、ここは台場にいたる通路があったところ。 台場そのものは、その向こう側に並ぶ家並みの裏側にある。 個人の住宅が並ぶその住宅の裏側に台場の石垣が接している。
全体で50メートルくらいであろうか、高さ1メートルくらいの石垣が続いている。
西ケ谷先生の解説によると、土の下に2メートルほど埋没しており、長さ200メートルくらいの台場の周囲全体が現在でも残っており、横浜市ではこの全体を掘り起こし、函館の五稜郭のような姿を再現する計画があるそうである。
台場のコーナ部分に120度の角度をつけた部分が二箇所残っており、この部分だけは特に念入りに仕上げられている。
ひときわ大きい石が、丁寧に削られて積み重なっている。 まるでコンクリート製のようである。
権現山城・青木城・道灌山城
この近辺には、中世の古城が三つもある。
「権現山城」は、現在の「幸ケ谷公園」であるが、本来この城はもっと高かったのだが、台場を作るとき、この山の土を使ったようしたため、山の1/3が削り取られたのだそうである。 したがって、城の片鱗は全くない。
権現山城から、鉄道線の向こう側に「本覚寺」が見え、その向こう側に「青木城」があった。 高台の上が本丸跡であるが、現在では閑静な住宅街である。
少し歩いて、ビル群を指してこのあたりが「道灌山城」です、といわれたものの、どこが城跡か全く分からない。
小雨の中、横浜駅まで歩き解散となる。 2時間の行程で1つの台場と3つの城址を巡り歩いたことになる。
神奈川台場メモ
安政6年(1859)、松山藩の立案により着工、翌万延元年に完工。
幅237m、奥行き86m、石垣の高さ8.5m。 鍋島藩の10門と松山藩の4門の砲を据付て、神奈川港を防衛する。
明治になってから、陸軍省の礼砲用に使われたたが、明治32年(1899)廃止。
権現山城メモ
永正7年(1510)、北条早雲に寝返った上田政盛がこの城を守り、これに対して関東管領山内上杉憲房と扇谷上杉朝定が連合してこの城を攻めた。
結果は北条早雲の完敗。 これが関東の戦国時代の始まりとされている。
青木城メモ
永禄2年(1559)の「小田原衆所領役帳」に、北条氏の有力家臣多米新左衛門がこの地を領していたことが記されている。
この城は、隣の権現山城の一部という説もある。
2006年5月13日