深大寺城   



案内図   深大寺城は、第1郭、第2郭と第3郭から成り立っていた。第3郭は現在、テニスクラブになっており、遺構は殆どみられないようである。この城に始めて訪れたのは13年前であった。


本来の大手口 左:第2郭、右:第3郭   第1郭と、第2郭も数年前に、大整備され、城跡の復元と、(その逆の)公園化のための破壊が行われてしまった。

   本来の大手口は、現在の公園への入り口ではなく、テニスクラブの入り口の方である(整備前はこちらが城への入り口であった)。車道ではあるが、急なカーブと両側の崖から往時の姿が想像できる。この大手口を登りきったところの左側が第2郭、右側が第3郭だったはずである。


第2郭(左側が第1郭)   改めて公園の入り口から登りなおすと、広々とした第2郭に出る。この郭はやや「ク」の字型の長方形で、長辺の長さは100m以上ある。周りは殆ど全て高さ1〜2mの土塁で囲まれている。内部はきれいに公園化され、ベンチなども適当に配置されている。


第1郭と第2郭の間の空掘   第2郭の東南部に第1郭がある。第1郭が第2郭と接する部分には、空掘が巡らされ、さらにその外側(つまり第2郭の外周)に土塁がある。この土塁の意味がよくわからない。第2郭から第1郭に向けての土塁を築いているのである。最後の防衛を行うためにはこの土塁はかえって邪魔になっている。


第1郭の内部より見た虎口   第1郭の中から、この郭の虎口をとおして第2郭を眺める。この両側は矢倉があり、城門の扉は厚い板であったことであろう。

  第1郭は、虎口の部分を除いて、人の背丈以上の土塁が周囲を取り巻いている。


第1郭虎口横の矢倉台   虎口の横に、通常の土塁よりやや高く、かつ上部の面積の広い矢倉台がある。この矢倉は単に第1郭の隅にあるというだけある。第1郭に進入しようとする敵に横矢を射るには、もっと前進していなければならないはずだが、中世前期の城としてはこれが普通の技術だったのだろうか。


第1郭の内部   第1郭の内部は、木が茂っているが、よく整地され、人の通っていいところだけに両側にとおせんぼうの柵を設けている。土塁の上にも登れない。少し過剰気味に感じられる。

  前に来たとき、郭の内部に土塁が突き出し、その脇に逆に少し凹んだところがあり、何の意味か不思議に思っていたが、公園化のためか、その土塁は殆ど削り取られ、わずかな痕跡だけになってしまっていた。歴史の破壊である。


第1郭東南隅の階段   また、この郭の東側から登るルートがつけられている。まるで、どてっぱら横をえぐられたように第1郭に公園化の道が貫いている。

  第1郭の東側に腰郭があるが、ここはコンクリートで舗装された歩道に変わっており、ところどころ石垣が見られるが、この石垣が現代のものでないことを祈りたい。

  第1郭の東南隅に、下より登る細い道があるが、ここには公園化で、丈夫な階段が築かれてしまっている。

  "公園化"で保存や復元はいいが、往時の姿を消してしまう整備化には納得できないところがある。もっとも、他の城址では、復興模擬天主などと、いいかげんな破壊を行っているところも多い。まだこの城は保存が主とみえるから良しとしようか、ブツブツブツブツ・・・・・・。


第1郭遠景   城の東側水生植物園になっているが、その向こう側から見ると、第1郭の繁みがよく見える。水生植物園には、この季節見るべき植物も少ないが、連休の最後、快晴の好日、散策するグループが多い。

  深 大 寺


深大寺門前   深大寺城にも休息を楽しむ人が多かったが、すぐ近くの深大寺周辺には休日を楽しむ老若男女が多い。あいにく、本堂の建物は大修理中。

  自分へのおみやげに深大寺焼きのぐい飲みを買った。600円なり。深大寺焼きには、不思議と備前焼き、萩焼き、織部焼きなどと同じようなのが並んでいる。自分の買ったのは織部風である。

  2001年5月6日


  深大寺城(再訪)

  深大寺城へ再訪した。調布市東部公民館主催の歴史講座の一環の、深大寺城の現地説明会である。
  案内人は、調布市郷土博物館学芸員の生田氏で、城跡の歴史、発掘時の話、公園化へのいきさつ、現状の説明などを2時間くらいにわたって説明してくれた。
  城跡の様子は、6年前と変わっていない。 前回来たとき、なぜ第2郭に第1郭に向けての土塁があるのか非常に疑問に思ったが、敵が(西からではなく)南から攻撃することを想定しているため、このような構造になっているとのことである。 疑問氷解。

  2007年12月5日

 深大寺城メモ

  古くは武蔵七党の狛江氏の築城との言い伝えがある。
  1537 扇谷上杉朝定が、北条氏との対決のため再築。守将は難波田(なばた)弾正広宗。
  しかし、この年の河越合戦で難波田弾正は討死し、この城の役割もなくなり、放棄された模様。