潮 来
潮来駅近くのあやめのある公園とめがね橋
千葉駅から、1時間くらい電車に乗る。 二つの利根川(もう一つの利根川は「北利根川」とか「常陸利根川」と呼ぶらしい)を越えると潮来駅に着く。
駅近くには、水郷らしい船着場、あやめのある公園、その向こうにめがね橋がある。 もう少し後なら、あやめの乱舞が見えるだろうにと、少し残念。
目指す城は、駅から北に4、5キロのところにある。
国道を1時間ほど北上する。 少し道を誤りそうになったが、おばあさんに道をきき、軌道修正。 やや暑くなりそうだが、湿度が低くあまり汗をかかない。
このあたり、水田の中の小高い丘陵が多く、お城を作る用地には困らない。
堀之内大台城
城址にある中学校
大台城は佐竹氏の城。 かつてこの地方を治めていた島崎氏を謀略で殺し、領地を奪い、そしてこの城を作った。 400年の後、島崎氏を懐かしむ現代人は佐竹氏のこの城を嫌い、徹底的に破壊した。
城址には中学校が建ち城の遺跡は無い、と聞いてはいたが、まさかこれほどまでにとは想像もできなかった。 城山は削り取られ、埋めたてられた。 何か痕跡は無いかと探したが、全く無い。
ここに城があったとの立て札さえ見つからない。
島 崎 城
西より見た島崎城遠景
大台城と島崎城の間は1キロくらいしかない。 この近くの家並は、旧家が多く、屋敷門を備えた家が多いのに驚く。
城は周囲の人家とその廻りは一面の水田である。 往時この水田が沼地か湖だったとすると、城を攻めるのはたやすいものではない。
本丸南郭の虎口(内側より)
城の主体は、南北に連なる3つの郭である。 3つの郭を便宜上、南から本丸、二の丸、三の丸と呼ぶことにする。
水田脇の道路から、ほんの少し登ると本丸に着く。 本丸はさらに南北の二つの郭に分かれている。
本丸の入り口は、背の高い土塁からなる虎口で守られている。
本丸南郭
本丸南側の中は、神社。 周囲に土塁の残っているところがある。 よくぞ400年間風雪に耐え、持ちこたえたと賞賛したい。 しかし、今にも崩れそうなところがあるのが心配である。
本丸北側の部分は笹藪で、足の踏み入れそうなところではない。
本丸と二の丸の間の掘切
本丸と二の丸の間には掘切がある。 この城の見所のひとつだが、今ひとつさえない。 藪が多いため見通しが悪く、深いはずの堀がさほど深く見えないせいでもあろうか。
二の丸
二の丸も笹薮だが、少しかきわけて中に入ると、笹のない空間がある。 人里を離れ、だれも来ることがない、自分ひとりの空間である。 鳥の声は聞こえるが、人間の営みの音は全くしない。 一種桃源郷のようでもある。
城址である証拠に、外周にはところどころ1メートルくらいの土塁がめぐらされている。 手入れもなく、朽ちるに任せているため、今にも崩れそうである。 しかし、大台城のように壊してしまうよりはずっとすばらしい。
三の丸
いったん道路に降り、さらに別の道から登ると、大きな鉄塔のある三の丸に着く。 ここは畑になっている。 人家も数軒ある。
東側は、絶壁の下に大きな道路が走っている。 その他の側も空堀などで囲まれているようだが、よく確認できない。
城山のまわりは、田植え前の田と、田植え後の田で囲まれている。
潮来駅までの帰りは、来たときとは違う山の手の道を真直ぐ南下する。 3時間半の散策であった。
佐竹氏に謀殺された南方三十三館
@芹沢城(芹沢国幹)
A玉造城(行方重幹)
B鳥名木城(岡田氏)
C手賀城(行方高幹)
D小高城(小高氏)
E麻生氏(麻生氏⇒島崎氏)
F島崎城(島崎義幹)
G武田城(武田信房)
H烟田城(烟田通幹)
I礼城(馬場幹繁)
J中居城(田野辺秀幹)
K鹿島城(鹿島晴房)
2004年4月29日
堀之内大台城メモ
文録元年(1592)、佐竹義宣が島崎氏らを滅ぼした後、築城。慶長元年(1596)完成。
佐竹氏の家臣小貫氏が在城。
1600年、佐竹氏の秋田転封で廃城となる。
島崎城メモ
古くは鎌倉時代、常陸大掾氏の一族行方氏の一族が島崎氏を称して、この地を支配。
天正18年(1590)5月27日、佐竹義宣、島崎安定ら、小田原城攻中の豊臣秀吉に会い、所領を安堵される。
翌19年2月9日、佐竹義宣、所領安堵の祝宴と称して、常陸太田城に島崎、鹿島、玉造氏ら常陸南部の諸大名を集め、その場で全員を謀殺してしまう。
主を失った城は、直後に落城。