伊勢原市と平塚市の城跡めぐり
天気予報では晴だったが、今日は曇っている。 しかし風がなくて、さほど寒くはない。
久しぶりの「日本城郭史学会」のバスツアーに参加した。
今日は、神奈川県伊勢原市と平塚市の城郭見学会である。
ガイドは、的確できれのいい解説にいつも感心する小高さん。
東京駅近くのバス駐車場を8時45分に出発。
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城跡ガイドの小高さん
| バスガイド(お名前聞き忘れた)
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丸 山 城
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丸山城址公園
| 一部に残る土塁
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最初に訪れたのは丸山城。
現在ここは「丸山城址公園」として整備されている。
公園は比高5メートルくらいの台地で、直径60メートルくらいの円形の広場。 周囲に少しながら土塁の跡が残っている。
丸山城メモ
三浦党の石田氏の本貫地の中心?
後北条氏時代は、藤田氏の所領250貫が石田にあった。
上 杉 館
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上糟屋神社
| 広い堀
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次は扇谷上杉氏の居館跡を訪れる。
扇谷上杉氏の居館は上糟屋あたりの上糟屋神社、洞昌院あたりがそれとされているらしい。
周囲には堀跡ではないかと言われている地形もあるが、ちょっと広すぎないか?との疑念もあり。
上杉館メモ
扇谷上杉氏の館が上糟屋にあった。
1486年、上杉定正が、この地で家臣の太田道灌を謀殺する。
【扇谷上杉氏】
┌B重顕─C朝定
│ ┌H顕房─I政真
@上杉重房─A頼重┼─頼成──藤成─┬D顕定==E氏定─F持定─G持朝┼─□□─【三浦】義同
│ │ ├J定正(太田道灌を謀殺)
│ │ └─朝昌┬K朝良
│ └─【小山田】頼顕・・・・ ├─朝寧─L朝興─M朝定(河越の合戦で討死)
│ └N憲勝
│ ┌【犬懸】憲藤・・・・
└─憲房┼【山内】憲顕・・・・
└【宅間】重兼・・・・
岡 崎 城
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本丸は昔のままの畑
| 本丸西の切岸
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南側の堀切を渡る一行
| 北側の掘
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この城には、14年前に訪れている。
その時は、伊勢原駅から一人でてくてく歩いた。
お寺の脇に「勢溜」と呼ばれる本丸とおぼしき郭があり、その南側にいくつかの郭が連立している。 郭は畑と雑木林で、郭間は深い堀切で仕切られている。 このあたりは、前回来た時とほとんど変わらない。
しかし前回見落としていた周囲の矢倉台や広い堀が見学できた。
岡崎城メモ
12世紀末、三浦義明の弟岡崎四郎義実が築城したと伝えられる。嫡男義忠は真田城を守る。
1455年 上杉方の三浦義国、足利成氏方の岡崎城を奪う。
1494年 義国の養子、三浦道寸義同の居城となる。
1512年 北条早雲、義同の守る岡崎城を攻める。義同は厨子の住吉城に逃れる。
1516年 新井城において三浦氏滅亡。
この後、北条氏の持ち城となるが、その後の状況不明。
桓武天皇−○−○−平高望−5代略┬三浦義明┬義宗−和田義盛
│ ├義澄−義村
│ └佐原義連−8代略−三浦義国=義同−義意
└岡崎四郎義実−眞田与一義忠
眞 田 城
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外より見た城跡
| 一部に残る土塁
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この城にも8年前に訪れているが、この城には都市化の波が押し寄せている。
2週間前にあったという土塁も削られている。
わずかにお墓の敷地となっている大きな土塁だけが残されている。
眞田城メモ
12世紀末、岡崎城の岡崎四郎義実の嫡男、眞田余一義忠の居城となる。
1180 義忠、頼朝に味方し、石橋山の合戦で討死。
1495 北条早雲に追われた大森藤頼が、眞田城に立て篭もり、3年間戦った(と言われている?)。
山下長者屋敷
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土塁を切り取った跡
| 食い違い土塁
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住宅街の一角にある中世の居館跡である。
方100メートルくらいの敷地が、土塁で囲われていたようである。
最近になって削られた土塁が、その切り口をさらしている。
わずかに、南西に食い違い土塁と堀が構成されている部分が残っている。 しかし、これも保存されているというより、開発し残されているという感じがしないでもない。
山下長者屋敷メモ
1510年の権現山合戦のとき、北条早雲が一時拠点とした「住吉要害」ではないかという説がある。
城郭訪問の合間に、いくつかの墓も訪問。
交通渋滞もなく、7時前に東京駅に着いた。
帰宅して万歩計を見て驚いた。 何と25173歩!
2015年1月24日