阿波一宮城   


中井均(関西の著名な城郭研究家)
  以前から昇太さんがお城を好きだというのは僕も知っていたんですけれども、ブログで阿波一宮城へ行かれたというのを見て、「ええっ」と驚いたんです。
  普通の人は、徳島だと徳島城だろうと思うんですが、私たち、城を研究しているものにとっては、徳島っていうと、やっぱり、阿波一宮城がすぐ頭に浮かんでくる。
春風亭昇太(「笑点」のメンバー)
  途中までは、戦国の城の雰囲気そのものじゃないですか。
  でも、上へ上がったときに突然、総石垣があって、あそこだけが時代が違う。
(対談「戦国の城が熱い」、『歴史読本』、2010年5月号、新人物往来社)
案内図
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登城道

 一宮城は、さほど有名な城ではないが、中世の阿波の城の中では最大級で、しかも現存状態もいい。
 蜂須賀小六が豊臣秀吉より阿波を拝領したとき、子の家政が入国し、阿波における居城としたのがこの城である。
 その後家政は、徳島に城を築きそちらに移ったが、その後も「阿波九城」のひとつとして重臣を配置していた。

登城道の傍らの石垣
途中にある曲輪跡

 麓の四国八十八札所の13番大日寺の脇から、山頂の本丸まで、歩きやすい道が整備されている。
 山腹の間につくられた道で、片側は谷筋である。
 途中、何箇所かに石垣で補強された場所や、曲輪跡がある。
 曲輪はいくつかあるが、戦国の山城らしく、それらは連結されておらず、土塁もない。

本丸入り口の石垣
本丸隅の石垣

 20分ほど歩くと山頂の本丸に着く。本丸は石垣の上にある。阿波の古城でこれほどの石垣は珍しい。石は阿波には多い緑泥片岩である。
 さほど複雑ではない縄張りと、さほど精巧ではない石組みに、無骨な戦国武士の心意気が感じられる。

本丸内部

 本丸内部は、数十メートルの広さがあり、小さな社が祭られている。
 そこからの眺めはすばらしい。吉野川最大の支流の「鮎喰川」と、その向こうに徳島市街が望める。はるかかなたに淡路島が望める。

 豊臣秀吉の四国征伐のとき、阿波を攻撃したのは豊臣秀長・秀次の6万の大軍である。 この城には長宗我部元親の家臣谷忠兵衛ら5000の兵が守っていた。
  ■長宗我部軍のうち、もっとも頑強な抵抗をみせたのは阿波一ノ宮城をまもる谷忠兵衛とその配下であった。
   上方軍の連日の攻撃にも容易に屈せず、落ちる気配さえない。 (司馬遼太郎、『夏草の賦』)
 しかし、この忠兵衛が勝ち目のないことをさとり、三好郡白地城にいた元親に降伏を説き、戦は終わった。

本丸からの眺め 徳島市街と、はるか淡路島の方向を望む
■山上には、昔のままに石崖が残っていた。見晴らしが無類に上等で、遠く西の方の平野に大きな川が流れ、
 街道には荷馬車やバスが通っていた。東の方は海である。 (井伏鱒二、『多甚古村』)

 2007年10月16日

 一宮城メモ

   応暦元年(1338)、阿波守護職の小笠原長房の孫の一宮長宗が築城。南朝方の武将として北朝の細川氏と戦う。
   天正5年(1577)、一宮成助、三好長治・十河存保らと戦い、長宗我部元親に誼を通じる。
   天正10年(1582)、長宗我部元親、一宮成助を謀殺する。
   天正13年(1585)6月、豊臣秀吉の四国征伐。豊臣秀長の大軍が長宗我部元親の臣谷忠澄の守る一宮城を攻める。
   7月、長宗我部元親降伏。
   9月、蜂須賀家政、阿波を与えられ、一宮城に入る。
   天正14年(1586)7月、家政、徳島城に移り、一宮城は家老の益田長行が守る。
   寛永15年(1638)、一国一城の令により廃城となる。