八 王 子 城   

当日配布された案内図 椚(くにぎ)先生(左)、と西ケ谷先生(中央)   日本城郭史学会主催の八王子城見学会に参加した。 このところ雨や寒い日もあったが、今日は晴天で陽の当るところでは暖かい。 高尾駅前には城好きの老若男女50名ほどが集まった。
  今日の講師はなんと、史学会会長の西ケ谷先生[写真中央]と、「戦国の終わりを告げた城」の著者・椚(くぬぎ)先生[左側]である。
  (右の地図は、当日配布されたもので、椚先生の作品である)

上の道   城山東南から続く車道の近くに、当時は曲がりくねった「下の道」があったが、現在ではそのごく一部が残されているにすぎない。
  この下の道に対する@「上の道」は近代になって発見されたもので、巾は広いところで10メートルを超える。 この道跡が残っているところに案内される。 栗林になっていて、落ち葉を踏みしめるのが心地よい。

全景   上の道から御殿谷川をはさんで、A城山の全景が見える。 向かって右側が本城、左側が詰めの城である。 ところどころにある紅葉が美しい。


引橋   上の道は、御主殿川にかかるB「引橋」で終点になる。 10数年前に当時の景観を想像して作られた橋であるが、あまりにも頑丈に作りすぎて、当時の景観とは思えない。 まあ、天守閣なんぞを作られるよりはましとしよう。

御主殿入り口の石段 焼けた石垣   橋を渡ると、C御主殿郭の虎口で、発掘された当時の石組み元に、復元したものである。
  階段の巾は一定ではなく、下段より上段の方が1メートル程広くしてある。 これは、肥前名護屋城の前田利家の城と同じになっていると、西ケ谷先生がしきりに関心しておられた。 前田利家といえば、この城を攻め落とした人である。 上段が広い方のは、敵の目を欺くためか、守り易いのか?
  石垣の一部に黒ずんだところがあり、落城の際、建物が不完全燃焼したため炭化したものらしい。

西北沢石垣群   御主殿の滝を見たあと、誘い道から登る。 案内板もない藪の中であるが、歩く人が多いのか、道筋ははっきりついている。
  少し登ったところに何箇所か石垣群があり、D西北沢石垣群と呼ばれている。 このあたりでは、雨の後に来ると、鉄砲の玉などの遺物が拾えることがあるそうである。


山頂へめざす   さらにE山頂に向かって登る。 けもの道ではなく、当時の道である。 らせん階段状に敷石のあるところがある。 また石切り場らしく、石を切りかけたままの状態になっているところがある。 たがねの跡が残っている石も見られる。 この山には石垣の材料には困らないようだ。
  さほど急ではないが、時折崖際の道になることもある。 少し汗ばむが、土の道を歩くのは快感である。


山頂から下界を見る   やっと山頂の郭群に着く。 山頂には、頂上の「山頂郭」と、そのすそに、「松木郭」、「中の郭」、「小宮郭」が並ぶ。 予定を大幅に遅れ、2時である。 我々は、松木郭でやっと弁当を食べる。 F下界の景色が素晴らしい。 天気がいいと、相模湾も見えるらしい。



「本丸」跡   食事後、「山頂郭」に登る。 10メートルくらいの円形で、狭い。 G「本丸址」の碑があるが、当時本丸という言葉はなかったはずである。 時代的に言って、この城に天守閣が全くなかったとは言い切れないと、西ケ谷先生の言葉である。
  下りは、東側の郭群を駆け下りるように降りた。 下に降りたら、4時を廻っていた。 




 2002年11月30日

 八王子城メモ

  北条氏康の次男氏照が、ここに城を築いて滝山城より移った。 時期はよく分からないが、天正10年(1582)前後らしい。
  天正18年、豊臣秀吉の侵攻により、氏照の家臣3500名が守るが、前田利家・上杉景勝らの攻撃により、6月23日わずか1日で落城。(氏照はこのとき小田原城に篭っていた)。

   ●篭城側(4千) 本丸:横地吉信、中の丸:中山家範・狩野一庵、山下曲輪:近藤綱秀、金子曲輪:金子家重
   ○寄手側 北条方降将、大道寺政繁・山田・小幡 →山下曲輪
        前田利家(1,8万) →金子曲輪、中の丸
        上杉景勝(1万) →搦手口、本丸
        真田昌幸(3千)

 北条早雲─氏綱─氏康┬氏政┬氏直
           │  └氏房[岩付]
           ├氏照[八王子]
           ├氏邦[鉢形]
           ├氏規[韮山]
           ├氏忠[佐野]
           └氏光[小机]