花 園 城
寄居に初めて来たのは2年半前である。 そのときは、鉢形城を訪れた後、2キロ先にある荒川にかかるダムを経由して帰り、途中にある花園城は訪れなかった。 今日はまずその花園城から訪れることにする。
東武東上線の終点「寄居駅」から国道を西に30分くらい歩くと、北側に花園城山が見える(右の写真は西南方向から見たもの)。 紅葉はまだ一部である。
小さな神社があり、その裏手にかすかに人が歩いた形跡のある道があり、それを登る。
まっすぐな道は、やがてジグザグになり、やがて判別しにくくなる。 途中、郭の跡らしいところや、石垣らしい遺跡にぶつかるものの、ほとんどは藪の中である。
遂に藪の中の道はまったく分からなくなる。
それでも上へ上へ行くと頂上にたどり着けるだろうと上方向に進むと、大きな堀切にぶつかる。 地図と、今まで歩いたルートの感覚から、本丸東側の掘切だろうと推測する。
この堀切に降り、向こう側に攀じ登ると、これまでとは違った広い空間に出くわす。
50m×30mくらいの広さがあり、藪の度合いも少ない。 北側はやや高く、端から下をのぞくと土の山とは思えない絶壁になっている。
やはりここが本丸だ。 北西の隅に「花園城址」の石碑が立っている。
本丸の西側にも深い堀切があり、少しではあるが、石垣が見られる。
この城には、何箇所かで石垣が見られるが、どれも緑泥片岩を積み重ねただけの単純なもので、規模も大きくない。 400年間の風化がすすみ、城は朽ち果てようとしているが、深い堀切と石垣に守られたところだけは遺構として残されている。
下りは本丸の西方向にする。 こちらも最初の内は道らしきものがあり、山登りの会でもあったのか、要所要所に青いビニールひもがくくりつけられている。 これは絶好の道案内だ。
ところが、いつかこの道案内にはぐれてしまった。 道を降りるというより、途中から、尻を地面につけて、ずるずるとすべって降りた。 3〜40メートル滑ると、やっと平地に出たが、ここがまた藪の中。 自分が今どこにいるのか全く分からない。
前後左右を探検すると、小川があった。 静寂の中の澄んだ水の小川で、まさに印象派の小川である。
しかし、小川の向こうもまた崖。 外界はどこだ?
ふとみると、その崖の上に古タイヤが捨てられている。 何のことはない、3メートルほどの崖を攀じ登ると道路に出た。 城の西側に南北に走る道路である。 やれやれ。
花園城メモ
久寿2年(1155)、武蔵七党の一つの猪俣氏の一族政行が藤田の地を領有し、藤田と改姓し、この城を築いたと伝えられる。
政行は保元の乱(1156)のとき、源義朝とともに戦っている。
元暦元年(1184)、”藤田三郎大夫行康”が一の谷の戦いで源範頼軍の武将として生田の森で先陣となり、勇戦の末討死している。
戦国末期、康邦は上杉氏につかえていたが、天文7年(1538)ころ北条氏に降り、城を北条氏に明け渡す。
小野篁─8代略─猪俣時範─忠兼─政家─@藤田政行─A行康─B能国─C能兼┐
┌─────────────────────────────────┘
└D能行┬E重国┬F助国┬H重康
│ └G重行└I泰氏
├J氏行─K氏景
└─重能─L国行─M国村─N康邦─重連
鉢 形 城
ふたたび市街地に戻り、南へ10分ほど歩くと荒川があり、その向こうに鉢形城がある。 鉢形城は、北に荒川、東にその支流の深沢川に囲まれた長さ6〜700メートルの細長い地域である。
荒川にかかる橋の上から鉢形城の勇姿が望める。
川はどこまでも清流であり、城側は絶壁の連続である。 東側の深沢川も、その名のとおり深い絶壁で、両方が天然の防御壁をなしている。 戦国大名がここを城に選んだのは素直に理解できる。
橋を渡るとすぐ鉢形城址の本丸と呼ばれているところで、3、4の郭が連続している。
遊歩道あり、ベンチあり、先ほどの花園城とは大違いである。 直ぐ近くに植物研究所があるせいか、針葉樹の見本、広葉樹の見本などが立ち並ぶ。
田山花袋の「襟帯山河好雄視関八州、古城跡空在一水尚東流」の詩碑がある。
一たん道路に出て南下すると、二の丸、三の丸などのある広大な敷地になる。
二の丸隅、荒川に面するところに巨大な虎口があり、なにやら工事中である。 深さ数メートルの虎口の遺跡が復元されるらしい。 丈夫そうな橋も掛かっている。 遺構の破壊でない復元を切に望む次第である。
二の丸側から水堀を挟んで大手郭が望める。 折からの紅葉と水堀の鴨たちが美しい。 中世というより、近世の城址の風情である。
大手郭からの眺めも素晴らしい。 土の造形がなんともいえぬ。
この一段低いところは当時水堀だったらしく、そうすると大手から三の丸への通路はこの細い道だけになり、かなり有効な仕掛けである。
みたび市街地に戻る。 折から寄居町の秋祭りで、山車が出ている。 山車には2,3人の中学生らしい女の子が笛を吹いている。 祭り用の装束ではなく、普段着のジーパン姿なのが現代風である。
朝10時から、4時間ほどの散策であった。 花園城の山下りが意外にこたえ、足を折り曲げするときに少し痛む。
2002年11月3日
鉢形城メモ
文明年間に長尾景春が築城したと伝えられる。
文明8年(1467)、鉢形城主長尾景春、主家の上杉顕定に背く。
文明10年(1469)、太田道灌、長尾景春を破り、上杉顕定が鉢形城主となる。
永正9年(1512)、顕定の子顕実、長尾景春に攻められ落城するが、上杉憲房が奪回。
後、上杉氏の家臣藤田康邦が城主となる。
藤田康邦は、北条氏に降り、北条氏康の子氏邦を養子とする。 康邦は用土城に移る。
永禄3年(1560)、氏邦、鉢形城を大改修。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の軍勢前田利家ら3万5千の軍勢に対して3000の軍勢で守るも、約1月の戦いで落城。 城は廃城となる。 氏邦は後、金沢で死去。
●北条方
鉢形城−北条氏邦3000、日尾城−諏訪部定勝、花園城−用土新左衛門、高松城−逸見氏
●豊臣方 3.5万
東搦手−前田利家 1.8万
南追手−上杉景勝 1万
西方 −本多忠勝 4千
北方 −真田昌幸 3千