足 柄 城
日本城郭史学会主催の「足柄・深沢見学会」に参加した。 今回は、めずらしくバスツアーである。
8時30分に東京駅丸の内南口集合だったのだが、何を勘違いしたか八重洲南口とばかり思い、ずーと待っていたが誰も来ない。5分前になってやっと気づき、丸の内側まで必死で走った。やれやれ。
一行は老若男女37名。大型バスに乗って出発。
3連休の初日とあって、高速はやや渋滞。足柄峠近くになると、大型バスは通れず、小型バス2台に乗り換える。
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御殿場から望む足柄山
| 足柄関所跡
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足柄峠は、古来東海道の本筋があったところ。
バスはジグザグ道を峠まで登る。
午前中の雨はあがったものの、霧が充満し、視界100メートル以下である。
(蛇足ながら、この関所碑は黒澤明の「乱」で使われたセットを使っているらしい。)
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霧の中の郭
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足柄城は、足柄道(古代の東海道)を取り囲むように縄張りされている。
何箇所かある郭は、不思議と平坦でない。当時からそうだったのか、経年変化によりそうなったのか定かでない。
郭間の掘切は、この山頂の山城にこれほどまで必要かと思うほど広くて深い。
ところどころに石垣の跡もみられる。
足柄城メモ
古来、東海道は、足柄峠を越えるルートだった。
昌泰2年(899)、足柄坂に出没する強盗を取り締まるため、「足柄関」を設ける。
天文年間(1532−55)、北条氏は武田氏の侵攻に備えて、この城の防備を固める。
天正10年(1582)ころ〜、北条氏忠(氏政の実弟)が城主となる。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めのとき、中山城陥落とともに廃城となる。
深 沢 城
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地図
| @城の西側の馬伏川
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足柄城から降りたのは既に1時を過ぎていた。
御殿場市内で昼食をとり、深沢城に向かう。 既に天気は晴れ、やや暖かい心地さえする。
城は、「馬伏川」と「抜川」に囲まれた台地にある。
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A三日月堀
| B馬出
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さて、武田流の城の最大の特色は三日月堀と馬出しである。
三の丸西側の三日月堀は、深くてシャープな形状が心地よい。最近までは田んぼだったらしく、保存状態もいい。
三の丸東側には、大きな馬出がふたつある。どちらも郭と呼んでいいくらい大きい。
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C二の丸付近(最も高い所)
| D二の丸と本丸間の土橋
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地図では、北から「本丸」「二の丸」「三の丸」の順になっているが、不思議なことに「二の丸」付近が最も高い。
二の丸と本丸の間は、深い掘切があり、土橋でつながれている。このあたりは、土塁などもあったらしいのだが、現在では殆どみあたらない。
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E本丸
| 本丸での西ケ谷先生の講演
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本丸は、広い。やや広めの運動場ができそうである。数枚の田んぼ状であり、北に行くほど低くなっている。
本丸の中央部で、西ケ谷先生の講演が行われた。有名な「深沢城矢文」について、およそ30分くらの熱のこもった解説だった。
深沢城メモ
16世紀初めに今川氏が築城したらしい。
元亀元年(1570)、武田信玄の武将駒井昌直の守る深沢城を、北条氏康・氏政38000が攻め落とす。
元亀2年(1571)、北条綱成の守る深沢城を、武田信玄が攻める。このとき有名な「深沢城矢文」が書かれた。
この後、武田流の築城法によった大改修が行われたようである。
天正10年(1582)、徳川氏の領地となり、三宅康貞が城代となる。
天正18年(1590)、徳川氏の転封とともに廃城となる。
2009年3月20日