阿波の城


  白地城   2012.7.19  


白地城遠景
 
石碑
周囲の切岸
  白地城は四国の中央にあり、秀吉の四国征伐のときに元親の本営となっていたことで有名である。
  南北270mの柿の種のような平面形状で、北東南は吉野川につながる自然の切岸、西方に堀切を設けられていた。
  残念ながら、旧郵政省の簡保保養センター(現「あわの抄」)が建ち、そのとき城跡はほぼ完ぺきに破壊された。 しかし、周囲の切岸と、ごくわずか郭間の土塁跡らしいものが残されている。

 白地城メモ
  平安時代、三好郡西部にあった西園寺家の荘園「田井の庄」の庄官として京都より近藤氏が来て、その後大西氏と改姓し土着。
  天正6年(1578)、長宗我部元親、白地城主大西覚養を攻め、落城。
  天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国征伐のとき、元親はこの城を本営とする。
  

  重清城   2010.10.15  


本丸の小笠原神社
本丸を囲む二重土塁
  秋の日、阿波国美馬郡の吉野川北岸につらなる三つの城を訪れた。
  まずは、重清城である。
  車が近づくと、一目で城跡と分かる二重土塁に出くわす。
  本丸には「小笠原神社」が朽ちている。その周囲には、ぐるりっと土塁が巡り、東側には横堀はさんで二重土塁、西は深い谷である。
  西側には谷との間に小郭もある。
  周りは人家と畠である。よくもここまで残っていたものと感嘆。

 重清城メモ
  文永4年(1267)、承久の乱で活躍し阿波守護となった小笠原長房が、阿波岩倉城を拠点とした。
  その後、天正7年(1579)、長宗我部元親、重清城を攻略する。

  岩倉城   2010.10.15  


岩倉城本丸全景
本丸内部
  次は岩倉城である。 戦国の終わり頃は、三好家、長宗我部家、豊臣家などとの凄惨な戦が何度かあった城である。
  何度か道に迷ったが、やっと何とかたどり着けた。
  本丸の小さな小山が残されているだけで、遺構は見当たらない。 わずかに本丸横に堀切が認められる。
  標識がなければ、全く分からないところだ。

岩倉城と脇城(昭和3年の地図)
岩倉城からの眺め
  岩倉城と脇城は、直線距離にすると300メートルしかない。
  本丸からは、左手に脇城、右手に吉野川が望める。
  岩倉合戦の行われたのはこのあたりだろうか。

 岩倉城メモ
  承久の乱後、阿波守護となった小笠原長房が文永4年(1267)、三好郡郡領・平盛隆を討ち、褒賞として美馬・三好郡を与えられ、阿波岩倉城を拠点とした。
  小笠原氏は、後に池田、一宮などに移る。
  永禄年間(1558−70) 三好康長がこの城を修築し、子の康俊に守らせる。
  天正7年(1579) 長宗我部元親、脇・岩倉城を囲む。
     三好康俊、元親に降り、勝瑞方の将士をよびよせ殲滅する(岩倉合戦)
  後、織田信長の侵攻計画とともに、康俊は再び元親に背く。
  天正10年(1582) 長宗我部元親が再び阿波に侵入し、勝瑞を落とした後、脇と岩倉を囲む。
     脇城の武田信顕は戦死するが、岩倉城の三好康俊は和議し城を明け渡す。
     脇と岩倉城には、長宗我部親吉が入る。
  天正13年(1585) 豊臣秀吉の甥・三好秀次(三好康長の養子)が攻め、開城。

  脇 城   2008.10.16/2010.10.15  


中央の山が本丸
城下の「うだつの町並み」
  三つ目は脇城である。
  三好長慶の築城と伝えられるが、蜂須賀家の筆頭家老稲田氏の城として有名である。
  城下には「うだつの町並み」の街道がある。
  城はこの街道の北側の台地にある。小さな神社の裏を登って行くと堀切があり、その先が二の丸、さらに進むと本丸である。 本丸も二の丸も藪に覆われているが、その間の土橋ははっきりと残されている。

本丸
本丸と二の丸間の土橋
  実は、この城には2年前に一度訪れている。 そのときは、どこがお城か分からず、人に聞こうにもまったく人影がなく、数件ある農家も無人だった。
  結局後で調べたら、我々は三の丸あたりをうろついていたようである。

 脇城メモ
  天文2年(1533) 三好長慶、脇城を築く。
  弘治2年(1556) 武田信玄の弟信顕が、長慶の計らいで脇城主となる。
  天正7年(1579) 脇城外の戦い。勝瑞の三好方と土佐の長宗我部方が、脇・岩倉城をめぐって戦う。
  天正10年(1582) 長宗我部元親、脇城の武田信顕を落し、長宗我部親吉を城主とする。
  天正13年(1585) 蜂須賀家政が阿波領主となり、稲田種元を城代とする。
  元和元年(1615) 一国一城の令により、廃城となる。

  鳥坂城   2010.10.16  


入り口
登坂道
  鳥坂城は、阿波では最も古い城のひとつである。
  平家物語で有名な佐々木氏四郎高綱の兄が阿波守護となりここを拠点とした。
  城は、おわんを伏せたような山一帯である。
  城の東西から、細いのぼり道がある。

本丸
本丸下を取り囲むような郭
  頂上に直径30メートルくらいの削平地があり、ここが本丸である。そして、本丸の周囲に同心円状に数段の郭が取り囲んでいる。土塁の痕跡らしきものもないではないが、土塁・堀などはほとんど確認できない。
  頂上の本丸を散策しているうちに方向を見失い、しばらくは帰り道を探すはめになった。

 鳥坂城メモ
  文治2年(1185) 佐々木経高、阿波淡路土佐三カ国の守護となり、鳥坂城を築く。
  承久3年(1221) 後鳥羽上皇、倒幕の兵を挙げ、佐々木経高も阿波600の兵とともに参加するが、敗死。
  貞応元年(1222) 代わって、阿波守護として入国した小笠原長経が、佐々木高廉の守る鳥坂城を攻め、落城。

  矢野城   2010.10.16  


城域は古墳
本丸
  「阿波史跡公園」を散策していたら、偶然「矢野城入口」の標識を見つけた。
  「気延山古墳群」の一つで、大きな前方後円墳がそのままお城である。 前方が二の丸、後円が本丸のようであるが、二つの間に堀切のようなものはない。 また、土塁のようなものもない。
  

 矢野城メモ
  天正7年(1579) 城主矢野国村が、脇城外の戦いで討死。

  夷山城   2010.10.16  


本丸
本丸下より
  住宅街の中のこんもりした山が本丸跡である。
  本丸は、お寺の敷地内らしいが、柵で囲われており中には入れない。 麓のお寺から登れないかと、周囲をめぐってみたが、それらしい登り口も見つからず、寺も無人である。
  本丸に続く二の丸は、大きな公園。 周囲はコンクリート。
  

 夷山城メモ
  天文21年(1552) このころ細川真之が在城。
  弘治年間(1555−58) 篠原氏が城主となる。
  天正4年(1576) 篠原氏の家臣・庄野兼時が城主となる。
  天正10年(1582) 三好康長が、この城を阿波の本拠とするが、本能寺の変が起き、京に戻る。

  撫養城(岡崎城)   2010.10.17  


模擬天主など
神社裏の石垣
  本丸跡に「妙見神社」があり、その裏手に石垣が残されている。
  城跡と呼べるものはそれだけである。
  

 撫養城メモ
  天正13年(1585) 阿波九城の一つとして、益田正忠3593石ここを守る。

  土佐泊城   2010.10.17  


撫養城からの遠望
  城のありかは一目瞭然なのだが、登り口が見つからない。
  病院の中からの道がありそうなのだが、今日は断念する。
  

 土佐泊城メモ
  天文年間に、阿波水軍の森氏が築く。
  森氏は、蜂須賀氏に仕え、天正14年(1586)椿泊3026石に移る。

  勝瑞城   2008.10.16  


本丸の堀
本丸内部。右奥に土塁跡
  阿波勝瑞(しょうずい)城は、戦国の200年間、細川・三好氏の本拠地として、阿波の中心だったところである。
  一面の平地で、起伏は殆どない。 築城の条件としては決して良くない。
  現在は「見性寺」の跡地で、周囲の水堀の一部が残されている。

 勝瑞城メモ
  貞治 2年(1363) 阿波守護細川詮春が勝瑞城を築いて秋月より移る。
     これより阿波細川氏の本拠地となる。
  大永 6年(1531) 勝瑞城主細川持隆、三好元長とともに京都に攻め上る。
     このころ、阿波勢は盛んに近畿で戦う。
  天文21年(1552) 三好義賢、細川持隆を自害させ、細川氏の時代は終わる。
  天正10年(1582) 長宗我部元親、勝瑞城を落す。
     城主の十河存保は讃岐に逃れ、城は廃城となる。

  牛岐城(富岡城)   2013.10.13  


天守台
保存されている石垣
  城は市街地の中に分散している。
  中央に天守台のあった小山、数十メートル北に現在神社がある小山、そして数十メートル南に小さな小さな小山。それら全体は住宅群に囲まれている。
  本丸跡には、頂上に発掘された石垣をそのまま保存している建物がある。
  普段ここには鍵がかかっており中には入れない。 下にある牛岐城公園管理事務所に行って開けてもらう。 中には、無骨な石組が展示されている。
  南側に小さな小さな小山がある。 高さは10メートル近くある。 よく残っているものと感心する。

南の小さな小さな小山
  LEDで有名な日亜化学工業がこの近くにある。 城山一帯は、LEDで飾られている。
  夜になれば戦国の城もLEDでキラキラ輝くようだ。
 牛岐城メモ
  貞治元年(1362)ころ、細川頼之の臣新開真行、この地を与えられる。(?)
  天正8年(1580)、長宗我部元親の阿波侵攻で、新開道善元親に降る。後、道善は元親に謀殺される。
  天正13年(1585)、豊臣秀吉軍の四国侵攻のとき、城主だった長宗我部治親泰は戦わず土佐に去る。
  同年、蜂須賀家政が阿波に入国し、家臣の細山帯刀(後賀島主水正)が城主となる。10000石。
  寛永15年(1638)、一国一城の令で、廃城となる。

  日和佐城   2013.10.13  


全景
展望台よりの眺め
  日和佐城は、太平洋に突き出した半島の小山一帯である。
  城域ははっきりわかっているのだが、城の遺構はまったくない。
  頂上には天守閣風の展望台がある。
  

 日和佐城メモ
  天正3年(1575) 日和佐城主日和佐肥前守、長宗我部元親に降る。(天正5年?)
  昭和53年、鉄筋4階建ての天守閣風の展望台が建設される。

  鞆城(海部城)   2013.10.13  


城山全景
登り口
登り道
本丸
本丸付近の石塁
本丸付近の石塁
  海部城も太平洋に突き出た半島の小山にある。
  海岸近くに碁盤の様にきれいに区切られた家並があり、その奥にこの山への登り口がある。
  最初のうちは木の段もあり、登りやすいのだが、そのうち道は全くなくなる。
  一帯は手入れのまったくない林である。 足場は悪く、雨の日の登城は危険のようだ。
  しかし、上へ上へと登っていくと、途中に削平された曲輪の跡や、石垣で補強された切り岸が認められる。
  本丸跡とおぼしきところでは、周囲に石塁がはっきり分る。
  行政の手で保護されていないまったっくの自然の林である。 城跡を示す石碑のようなものもない。 コンクリートと大きな天守閣の聳える現代の城よりはるかに素晴らしい。

 海部城メモ
  元亀2年、海部左近将監友光、海部城を築く。
  天正3年、および5年、長宗我部元親が侵攻し、落城
  天正13年(1585)、蜂須賀家政が入国し、中村右近大夫重友城主となる。5254石。
  後、中村重友は大西城(池田城)に移り、代って益田宮内一政7000石。
  寛永15年(1638)、一国一城の令で廃城となる。代って、代官所(御陣屋)が置かれる。
  正保3年(1646)、益田豊後長行、分藩を画策し、処刑される。

・・・  阿波のお城の歴史  ・・・


@源平時代〜佐々木時代
佐々木秀義┬定綱【近江・石見・長門・隠岐守護】・・・京極・六角氏祖
     ├経高【阿波・淡路・土佐守護】─高重─秀経
     ├盛綱【越後・伊予守護】
     ├高綱【長門・備前守護】
     └義清【出雲守護】
寿永2年(1183) 桜間城主田口成良、国司阿波守となる。
寿永4年(1185) 源義経の軍勢勝浦に上陸。新居見城の近藤六親家を味方につけ、平家方の桜間城を攻め落とす。
文治2年(1186) 佐々木経高、阿波・淡路・土佐3ケ国の守護となり、鳥坂城を本拠とする。
承久3年(1221) 後鳥羽上皇の倒幕挙兵に対して、佐々木経高阿波の兵600を率いて参加。経高は山城にて自害。
貞応元年(1222) 新たに阿波守護となった小笠原長経・長房が鳥坂を攻め落とす。


A小笠原時代
源頼義┬義家【源氏本流】
   └義光─・・・─小笠原長清─長経┬長忠【信濃小笠原氏】
                   └長房【阿波小笠原氏】
                     ├長久┬長義─・・・─大西覚養【阿波白地】
                     │  └長宗─・・・─一宮成助【阿波一宮】
                     ├長親─・・・・・・─重清長政【阿波重清】
                     └長種─・・【三好氏】
貞応元年(1222) 小笠原長清、阿波守護となる。
寛喜3年(1231) 小笠原長経、阿波守護となり、勝瑞を守護所とする。
文永元年(1264) 小笠原長房、三好郡領の平盛高を滅ぼし、三好・美馬郡を得、岩倉に本拠を置く。
小笠原氏は、大西(白地)、重清、一宮などで支族が栄える。


B細川時代
細川公頼┬@和氏─❶清氏─政氏
    └A頼春┬B❷頼之 
        ├C頼有─・・・ 【和泉細川氏(肥後熊本細川氏)】
        ├❸頼元┬F❹満元┬❺持之─❻勝元─❼政元  【京兆家】
        │   │    └H持元
        │   └持国─持春─教春─政春─❽高国─❾稙国
        ├詮春─E義之
        └D満之┬G満久┬J持常
            │   └教祐─K成之─L義春┬澄元─❿晴元
            └I基之           └M之持─N持隆─O真之
  ❶❷❸・・管領職
  @AB・・阿波守護職

B足利義満─E義教┬G義政─H義尚
         ├義視─I義稙
         └政知─J義澄┬K義晴┬L義輝
                │   └N義昭
                └【平島公方】義惟(義冬)┬M義栄
                             └義助・・・
  BCD・・将軍職
建武3年(1336) 細川和氏・頼春、阿波守護となり秋月に本拠を置く。
暦応元年(1338) 南朝方の小笠原(後一宮氏と改姓)長宗、一宮城を築き、北朝方の細川氏と戦う。
  このころ、南朝方の新田氏の一族脇谷義治、八ツ石に築城。
正平18年(1363) 細川詮春、勝瑞に移る。
弘和元年(1381) 南朝方の菅生大炊助が細川氏に降り、阿波の南北朝時代は終わる。

応仁元年(1467) 応仁の乱始まる。細川成之、阿波・三河の兵8000を率いて東軍に参加。
  飯尾常房、「汝や知る野辺の都の夕雲雀 あがるを見ても落つる涙は」の歌を詠む。

天文3年(1534) 細川持隆、義惟(義冬)を平島に迎える。
天文21年(1552) 細川持隆、三好義賢により殺される。
天正4年(1576) 細川真之、密かに仁宇谷に逃れる。


C三好時代
小笠原長種─・・・─三好義長─長之┬之長┬長秀┬元長┬【畿内】長慶┬義興
                 │  │  │  │      └義継(一存実子)
                 │  │  │  ├【阿波】@義賢─A長治
                 │  │  │  ├【淡路】安宅冬康
                 │  │  │  └【讃岐】十河一存─B存保(義賢実子)
                 │  │  └康長(秀次の養父)─康俊【阿波岩倉】
                 │  └長則─長逸(三人衆の一人)
                 └勝時─政長─政康(三人衆の一人、大坂の陣で戦死)
 @AB 阿波三好家

永正17年(1520) 三好之長、細川高国と戦って敗死。
天文元年(1532) 三好元長、細川晴元と堺で戦い敗死。
天文2年(1533)頃より、三好長慶活躍。永禄7(1564)没。

天文21年(1552) 三好義賢、細川持隆を殺す。
   義賢に暴挙に対し、芝原城主久米義広が兵800で弔い合戦を挑むが、
   三好義賢2000の兵に敗れる。(黒田・鑓場の合戦)
   【三好義賢方】 一宮(一宮成助)、早淵(早淵主馬亮)、淡路・安宅冬康、奥野(奥野親経)
   【久米義広方】 花房(仁木高将)、蔵本(小倉重信)、佐野須賀(佐野載房)、
           野田山(野田内蔵助)
永禄5年(1562) 三好義賢(実休)、畠山高政と和泉久米田で戦い戦死。
   戦後、このとき戦った多くの武将たちが改名する。
     上桜・篠原長房⇒紫雲、木津・篠原実長⇒自遁、三好康長⇒笑岩、
     牛岐・新開忠之⇒道善、海部・海部友光⇒宗寿、一宮・一宮成助⇒卜閑、
     白地・大西重元⇒覚養、西条東・岡本清宗⇒牧西、上浦・有持成康⇒道慶、
     矢上・矢野虎村⇒戒厳、板西・赤沢信濃⇒宗伝
   三好家は長治が跡を継ぐ。上桜(篠原長房)、木津(篠原自遁)、板西(赤沢宗伝)らが執事。
永禄9年(1566) 三好康長、篠原長房ら足利義栄を擁して兵庫に上陸。織田信長らと戦う。
   義栄は第14代将軍となる。
   このころ、篠原長房ら「新加制式」を定める。

元亀3年(1572) 三好長治、7000の軍勢で上桜を攻める。
   篠原長房、1500の兵で戦うが戦死。
天正4年(1576) 細川真之、密かに仁宇谷に逃れ、茨ケ岡に拠る。
天正5年(1577) 三好長治、細川真之を攻めようとするが、
   逆に一宮成助・伊沢頼俊に攻められ今切で自害。
   【三好長治方】 今切(篠原玄蕃亮)、土佐泊(森志摩守)、林崎(四宮加賀守)
   【細川真之方】 仁宇(仁宇正広)、西方(東条実光)、一宮(一宮成助)、
           伊沢(伊沢頼俊)、早淵(早淵頼母亮)
   木津の篠原自遁ら、弔い合戦と称して、7000の軍勢で一宮城を攻め落とす。
天正6年(1578) 十河存保、勝瑞に入る。

  ●ところで  ”小少将”という女性の夫と子たち
    最初の夫  細川持隆 子、細川真之
    次の夫   三好義賢 子、三好長治、十河存保
    三番目の夫 篠原自遁(篠原長房の弟)
    最後の夫  長宗我部元親 子、長宗我部右近太夫


D長宗我部元親の侵入

天正3年(1575) 長宗我部元親、5000の兵で阿波南部に侵入。海部城(海部宗寿)を落とす。
天正7年(1579) 長宗我部元親、重清城を攻略した後、脇・岩倉城を囲む。
   三好康俊、元親に降り、勝瑞方の将士をよびよせ殲滅する(岩倉合戦)
天正10年(1582)5月、織田信長、織田信孝・丹羽長秀を四国征伐に向かわせようとする。
   三好康俊これに呼応。
   6月、本能寺の変で中止。


天正10年(1582)8月、長宗我部元親が再び阿波に侵入。
   8月、中富川の合戦(長宗我部元親23000:十河存保5000)。
   9月、十河存保は讃岐虎丸城に退去。
   合戦後、阿波の武将たちが次々謀殺される。
     9月 牛岐城主・新開道善謀殺。 10月 細川真之憤死。 
     11月 一宮成助謀殺。
   勝瑞を落とした後、脇と岩倉を囲む。
   脇城の武田信顕は戦死するが、岩倉城の三好康俊は和議し城を明け渡す。
   脇と岩倉城には、長宗我部親吉が入る。

天正11年(1583)4月、木津の篠原自遁、長宗我部氏に攻められ淡路に逃れる。

中富川の戦い 天正10年8月28日
赤字−十河存保方で城主が戦死した城
青字−長宗我部元親に味方した城
【三好方で戦死した城主】
  矢上(矢上虎村)、下六条(三好何右衛門)、板東(板東清利)、七条(七条兼仲)、板西(赤沢宗伝)、保崎(馬詰駿河)、
  西条(西条益太夫)、北原(北原義行)、知恵島(知恵島重綱)、南島(甘利奥右衛門)、乗島(乗島来心)、高畠(高畠時清)、
  第十(第十拾太夫)、日開(鎌田光義)、徳里(白鳥左近)、下浦西(田村盤右衛門)、鈴江(鈴江友明)、櫛淵(櫛淵国武)、
  長塩(長塩六之進)、大寺(大寺松太夫)、野本(野本左近)、大代(大代内匠)、佐藤須賀(佐藤長勝)、瀬部(瀬部友光)、
  高志(高志右近)、讃岐・大内(寒川三河守)、讃岐・宇多津(奈良太郎左衛門)、飯尾(飯尾常重)、中島(片山重長)、
  角田(角田平右衛門)、湯浅(湯浅豊後守)、福井(芥川宗長)、大潟(四宮光武)、古川(古川友則)、市楽(石河吉行)、
  中庄(中庄主膳)、新居(堀江国正)、原(原田信綱)、香美(香美馬之進)、吉田(原田小内膳)、姫田(姫田甚左衛門)、
  由岐(由岐有興)
【長宗我部に味方した阿波の城主】
  牛岐(新開道善)、一宮(一宮成助)、夷山(庄野兼時)、桑野(東条関之兵衛)
【その他】
  木津(篠原自遁)


E豊臣秀吉の四国征伐
天正13年(1585)6〜7月 豊臣秀吉の四国征伐。

【豊臣秀吉方】
  阿波方面 羽柴秀長3万、羽柴秀次3万
  讃岐方面 宇喜多秀家・蜂須賀正勝ら 1.5〜2.3万
  伊予方面 小早川隆景2.5〜4万

【長宗我部元親】 総数2〜4万
  白地(長宗我部元親)、
  渭山(吉田康俊)、一宮(谷田忠澄、江村親俊)、木津(東条関之兵衛)、
  牛岐(長宗我部親泰)、岩倉(長宗我部掃部助)、脇(長宗我部新左衛門尉)


F蜂須賀時代
天正13年(1585) 蜂須賀家政、阿波に入国し一宮城に入る。17.3万石。
            赤松則房、住吉1.0万石。
天正14年(1586) 蜂須賀家政、徳島に移る。
慶長5年(1600) 赤松則房除封、住吉は蜂須賀至鎮に与えられる。
元和元年(1615) 蜂須賀至鎮、淡路を加封され、25.7万石。この年、一国一城の令。

【阿波九城】
  一宮城     益田宮内少輔持正
  岡崎(撫養)城 益田内膳正忠3593石→益田大膳正利5000石
  西条城     森監物5500石
  川島城     林図書助能勝(後道感)5500石
  脇城      稲田左馬亮稙元10000石→稲田修理亮示稙14000石
  大西(池田)城 牛田掃部尉一長5300石→中村右近太夫重友
  牛岐(富岡)城 細山帯刀(⇒賀島主水正)政慶10000石
  仁宇(和食)城 山田織部正宗重5000石
  鞆(海部)城  中村右近太夫重友5254石→益田宮内一政7000石→益田豊後長行7500石
蜂須賀正勝─@家政─A至鎮─B忠英┬C光隆─D綱通
                 ├(1)隆重
                 ├隆矩─E綱矩─(3)正員=F宗員
                 └隆喜┬G宗英
                    └(2)隆長
松平頼熙┬H宗鎮
    └I至央
佐竹義道─J重喜─K治昭─L斉昌
コ川家斉─M斉裕─N茂韶

@AB 徳島藩主
(1)(2)(3) 富田藩主


鎌倉幕府守護-1205-佐々木経高
-1221佐々木高重
1221-小笠原長清
-1223-小笠原長経
-1333小笠原氏
室町幕府守護 1339-1340細川和氏
1341-1352細川頼春
1352-1372細川頼之
1373-1379細川頼有
1379-細川政氏
1381-1392細川頼之
1392-1402細川義之
1411-1430細川満久
1430-1449細川持常
1449-1478細川成之
1479-1488細川政之
1488-1494細川義春
1494-1512細川之持
1512-1553細川持隆
1553-細川真之
阿波三好家-1562三好義賢
1562-1577三好長治
1578-1582十河在保