新 井 城
戦国の昔、伊豆に興った北条早雲は、小田原を本拠として、関東征服を目指した。
真っ先の相手は、東相模の三浦道寸(義同)である。
三浦道寸は、本拠岡崎城を落され、厨子の住吉城も落され、嫡男義意の新井城にこもった。
今日はこの新井城を訪れることにする。 昨日の大風もやみ、散策には絶好日和である。
京急三崎口駅からバスで20分ほどで、「油壺」につく。
バス停からすぐのところに「内の引橋」とよばれる地峡があり、それより西側が新井城の城域である。
東西500メートルくらいで、さほど広くはない。 南半分が東大の地震研究所で、北半分が観光施設になっている。
城の南側は、数百メートルのハイキングコースとなっている。 道はコンクリートであるが、両側は土の塊である。
コースの南側は油壺湾の絶壁、北側は土塁が続いている。
東大地震研究所は基本的には「関係者外立ち入り禁止」となっている。
少し気はとがめたが、少しだけ中に入らせてもらう。
内部には、西南端の主郭とおぼしきあたりを中心に、土塁と空堀の跡が確認できる。
しかし、基本的には研究所の施設であり、コンクリートの道や、空堀の車跡など、歴史保存の対策はとられていないようである。
「外立ち入り禁止」のせいで、自由に見学できないのは残念だが、内部が荒されたり汚されたりしないので、これには賛成である。
十数分も歩くと、道は下降し、突然のように磯の匂いがしてくる。
降りた先が荒井浜である。 春になったばかりで、磯遊びをする人はまだ少ない。
この浜は、安政大地震と関東大地震で隆起して出来たものだそうで、戦国のころは断崖絶壁の海であった。
海の水は澄んでおり、浜辺には小さな貝殻で埋め尽くされている。 しばし童心にかえって貝拾いをしたが、何と「宝貝」を発見した。
四方を絶壁で囲まれたこの城は、食糧と志気さえあれば何年でも篭城できそうである。
三浦氏は、この城で北条軍と3年間戦ったが、遂に力尽いて落城した。
最後の城主、三浦陸奥守義同(道寸)の墓が、北側に小さく突き出した見張り台とおぼしきところにある。
新井城メモ
1494年 三浦義同、義父の時高を討つ。
1495年 北条早雲、大森藤頼の小田原城を奪う。大森藤頼の娘が三浦義同の母。
1512年 北条早雲、義同の守る岡崎城を攻める。義同は厨子の住吉城に逃れ、その後新井城に篭る。
1516年 新井城において三浦氏滅亡。
この後、北条氏の持ち城となるが、その後の状況不明。
三 崎 城
「油壺」のバス停に戻り、「城ヶ島」行きのバスに乗り、途中の「三崎東岡」で降りる。 このあたりが三崎城に最も近いと思って降りたのだが、城がどっちにあるのかさっぱり分からない。
さしたる案内板もなく、道は限りなく曲折し、また登り降りも多い。
とにかく、城は上の方向だろうと歩いているうちに、中学校の東側に「三崎城案内板」が見つかった。
右の画像の右側が本丸あとの教育委員会、左側がそれを取り巻く郭のあとの中学校である。
中学校の外周が土塁跡か、と思われる他には遺跡らしいものはみあたらない。 空堀や崖は、コンクリートで固められ、往時の姿は心の中で想像するしかない。
城下は港町である。 漁船が見える、ドックで修理中の船も見える。
港を回って、城ヶ島へ至る大橋から眺めると、高台の上に城郭群が並んでいるように見える。
城ヶ島の商店街まで歩いてゆき、またそこからバスで「三崎口」までもどる。
三崎口から品川までの京急電車は快適であった。
三崎城メモ
16世紀初頭には、すでに三浦氏によって築城されていた。
1516年 新井城において三浦氏滅亡したき、この城は北条氏のものとなる。
その後、房総の里見氏に備えるため、北条水軍の根拠地となり、小田原開城時は、北条氏規が城主。
2006年4月4日