庄内一分銀

    
庄内一分銀
天保一分銀に「庄」の刻印

安政6年(1859)、幕府は一分銀の品位を改鋳しました。
 ●「古一分(天保一分銀)」 8.66g、品位991(2.3匁、品位9886)
 ●「新一分(安政一分銀」) 8.63g、品位873(2.3匁、品位8936)
重さは殆ど変りませんが、銀品位が悪くなりました。これでも同じ金一分(一両の4分の1)で使えというお達しでした。

出羽庄内藩(鶴岡)は酒井氏17万石の大藩。 豊かな米の産地であるとともに、集荷地として発展してきたところです。
酒井家は善政で知られ、天保11年(1840)に国替えの話があったとき、領民が大反対運動を起こしました。

幕末この地で、高品位の古一分が退蔵され、低品位の新一分が大量に流入し、藩内の経済が混乱しました。
そこで、藩当局は藩内の古一分を新一分の2割5分増しの「増分運用」を認めました(古一分4枚で新一分5枚と等価としました)。 そして、他藩からの流入を防ぐため、藩内にあったすべての古一分に「庄」の極印を打つことにしました。

打印は、慶応4年(1868)5月20日から6月15日までの短期間に、酒田と鶴岡において行われました。
打印数は、酒田で30万両、鶴岡で13万両と推定されています。 古一分銀の幕府の発行高は、およそ2000万両(8千万枚)ですから、その2%くらいとなります(大量です!)。
戊辰戦争の真っただ中です。 官軍が江戸に入ったのはこの年の4月11日のことです。 官軍の次の標的は、会津藩と庄内藩です。 5月1日に白河城を奪い、5月19日には長岡城も奪いました。
この庄内一分銀が発行されたのは、まさにそのころです。 政治も経済も大混乱していたころです。

酒井家の家紋
ところで、上の画像の一分銀には、「庄」の極印の他に4つの極印があります。
表に「井」と「キ」、裏に「サ」と「人」の極印です。
裏下の「人」は、酒田製と鶴岡製の区別のための刻印とされています。右下にあるのが酒田製、左下にあるのが鶴岡製と推量されていますが、確証はありません。 デザインは庄内藩主の酒井家の家紋の中央部を使ったとの説があります。
他の3つは、両替商の刻印でしょうか。 「キ」と「サ」は同じ刻印かも知れません。



この庄内一分銀については、疑問点もいくつかあります。
・なぜ庄内だけ?
  同じ問題は、日本全国どこでも発生しえたはずです。 なぜ庄内藩だけがこのような対応を取ったのでしょうか。
・なぜこの時期に?
  新一分の発行からすでに9年たっています。 官軍が迫っています。 なぜこの時期に?
・増分運用は多すぎないか?
  銀品位の低下量は10%です。 それに対し、増分運用は25%もの高額です。

この年の7月19日、会津・庄内・米沢の3藩は合同して、オランダ商人より銃3000丁と弾丸150万発を購入しています。 この代金は10万6541両余でした。 決して豊かではなかった藩財政の中、本間家などの豪農・豪商から支援を受ける交換条件としての策だったのかもしれません。 (本間家からは、このとき6万両の献金を受けています)

9月8日に年号が「明治」と改元され、9月22日に会津藩が降伏しました。 庄内藩が新政府に降伏したのは、9月26日のことです。 会津藩が壊滅的な打撃を受けたのに比べると、庄内藩の被害は軽微でした。

  2014.9.17