サカモト銭

古寛永通宝 称坂本跳永  3.8g 24.3mm

17世紀初め、東南アジアでは、ヨーロッパ人を中心とする貿易が盛んでした。 東南アジアの生糸、明の陶器、日本の銅などが主な交易品でした。 日本では「朱印貿易」と呼ばれています。
1634年、オランダのアユタヤ商館長が平戸商館長にあてた手紙の中に次のような文章があります。
■(交趾シナに送ってほしい商品として)銅銭は非常に需要があり、さまざまな銅銭が求められている。最大の利益をあげるのは、サカモトとよばれるもので、最良種として通用し、1000枚につき丁銀で8匁5分、交跡シナの貨幣で10匁で売れた。最近は金と生糸の値段が高騰したので、11〜12匁に値上がりした。

●「サカモト」とは何か?
この中で、「サカモト」というのが気になります。 近江坂本は、その大半が延暦寺の寺領で、寛永通宝を最初に発行した所です。
幕府の記録では、寛永13年(1636)に江戸浅草、江戸芝、近江坂本の3箇所にて「寛永通宝」を鋳造開始したことになっていますが、これは上の手紙の2年後のことです。 寛永通宝は実際にはそれ以前より鋳造されており、幕府により追認されたのが寛永13年なのではないかと推察します。
上の画像は、鋳造地不明ながら、現在古銭家により坂本銭と称されているものです(根拠はありません)。

●この銭の価値は?
テキストの「丁銀で8匁5分」は、より忠実に訳すと「スホイト銀8.5マース」です。これは日本の丁銀8.7匁に相当します。
(スホイト銀の銀品位=830、慶長丁銀の銀品位=800、1マース=3.7g、1匁=3.75gで計算)
ところが、当時日本国内では、銭1000文はおよそ銀18〜22匁の相場でした。 すると、オランダ人は銭を日本の相場の半分以下で入手していたことになります。 当時日本は銭と共に銀も輸出していたのですが、・・・・

●「エーラク」と「ミト」とは何か?
この年(1634年)、オランダの東インド会社は、
 ・平戸の商人九郎左衛門から、「サカモト」を481.5万枚(1000枚あたりスホイト銀9.0マース)で購入。
 ・堺の商人九郎右衛門から、「サカモト」を490.9万枚(単価8.5マース)、と「エーラク」を93万枚(単価7.5マース)で購入。
 ・これらのすべてを台湾経由でバタビアに運搬。
しています。
さらに、この後オランダは、数年間にわたり日本の平戸、堺、大坂、京都などの商人から、「サカモト(sakamotta, sackamotta, saccamotte)」、「エーラク(erack, jerack)」、「ミト(mito)」、「ヌメ(nume)」、「タマリ(tammarij)」などの銭を購入しています。
日本の銭が、「エーラク(永楽通宝?)」、「ミト(水戸?)」のようなブランド名で生産されていたことに驚きです。 ヌメ、タマリについては全く想像できません。 


【参考年表】
1609 オランダ、平戸に商館を設置。
1619 オランダ、ジャワに総督を置く。
1630 シャム王国の山田長政が毒殺される。
1635 日本人の海外渡航と帰国が禁止される。
1636 江戸浅草、江戸芝、近江坂本の3箇所にて「寛永通宝」を鋳造開始。水戸でもこの年鋳造開始。
1639 ポルトガル人の入国を禁止(鎖国)。
1641 オランダの平戸商館を長崎出島に移す。
1659 寛永通宝の輸出が禁止され、代わって、長崎で貿易専用の銭(長崎貿易銭)が発行される。

【参考資料】
  永積洋子、「朱印船」、吉川弘文館、2001
  鈴木公雄編、「貨幣の地域史」、岩波書店、2007

  2011.5.3   2011.11.16